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2016年10月17日

ギザの大ピラミッドで新たに2つの「空洞」発見

エジプトのギザの大ピラミッド」に、これまで知られていなかった2つの「空洞」が存在する可能性があることが、ラジオグラフィ(X線撮影)を用いたスキャン調査で判明した。ピラミッドの謎解明を目指すプロジェクト「スキャンピラミッド」の科学者らが15日、明らかにした。

 これに先立ちエジプト考古省は13日、クフ王の命により約4500年前に建てられたギザの大ピラミッドで「2つの異質な点」を発見したと発表。その機能や性質、大きさなどを特定するには、さらなる調査が必要だとしていた。

 高さ146メートルのギザの大ピラミッドは、古代エジプト第4王朝のスネフル王の息子であるクフ王にちなんで「クフ王のピラミッド」と呼ばれ、世界の七不思議の一つに数えられている。

「スキャンピラミッド」の科学者らは声明のなかで、ラジオグラフィと3次元再構築技術を用いた調査で大ピラミッドの北壁の裏に隠れた「空間」が存在することを確認したと発表。大ピラミッドの内部に通じる通路を少なくとも一つ形成しているとみられるという。さらに、北東の側面にも「空洞」を発見したという。
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2012年11月10日

足利将軍の遺髪収納か 地蔵菩薩像頭部内に包み紙

 大津市歴史博物館は9日、三井寺(園城寺)にある室町時代前期の木造地蔵菩薩(ぼさつ)坐像をエックス線撮影したところ、頭部の中に納入品を包んだとみられる紙が見つかったと発表した。寺の文書に、地蔵菩薩に納入した記録がある室町幕府2代将軍足利義詮か、初代尊氏の遺髪の可能性があるとみている。

 三井寺には、足利家御用達と言われた仏師集団「院派」の作とみられる地蔵菩薩像が3体ある。金堂にある1体(高さ42センチ)の首の付け根には、頭部の空洞をふさぐ布があり、納入品があるとみて撮影した結果、約7センチ四方に折りたたんだ紙があることが判明した。

 地蔵信仰にあつかったと伝わる尊氏は、当時の三井寺金堂などを再建し、寺との関係も深かった。義詮が亡くなった翌年の1368年の「園城寺文書」には、尊氏が亡くなったときの先例に従って、地蔵菩薩に義詮の髪を入れて寺に納めたとの記述がある。仏像の制作時期が1350〜70年ごろとみられることから、義詮か、1358年に亡くなった尊氏の遺髪を納めた像と推測できるとしている。

 撮影に協力した東京文化財研究所の津田徹英文化形成室長(日本彫刻史)は「破壊せずに納入品が見つかった意義は大きいが、髪は細い線でも写るはずなので、髪があるかは慎重に判断しなければならない」としている。

 同博物館では13〜25日まで、地蔵菩薩坐像とエックス線写真を展示する。京都新聞 11月9日

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山王遺跡:古墳時代の豪族の居館跡、貝塚層も 都城創建前に生産・技術力−−多賀城


 県教委は、多賀城市南宮の山王遺跡八幡地区で、県内では珍しい古墳時代中期(5世紀)の豪族の居館跡や、高度な漁労具などを伴った同後期(7世紀)の貝塚層などを発見した、と発表した。この地域が古くから仙台平野の中心地の一つで、多賀城創建(724年)につながる生産力や技術力の基盤を備えていたことが明らかになった。現地説明会は10日午前10時半から。
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 古墳時代の居館は、一般的なムラとは異なり河川流域を支配する有力者とその配下の衣食住、政治、祭事などの拠点。今回、居館跡を囲む幅約4メートルの堀跡と推定高3メートルの材木塀跡が南北約70メートルにわたって確認され、住居や工房など居館内で現在までに見つかった建物跡は28軒に上る。


 このうち、鉄製品の鍛冶場とみられる工房跡からは、ふいごの先端につける羽口(はぐち)や砥石(といし)などが出土し、当時の最先端技術が導入されていたことがうかがえる。


 また貝塚は、当時の河川の蛇行地点に広がっていた。カキ主体の貝殻や鹿の骨を使ったモリ、ヤスなどの精巧な漁労具のほか、模様入りの小刀の柄や占い具なども見つかり、100戸単位の大規模集落のゴミ捨て場だったらしい。住民は船で川を下り、南側の現七ケ浜町付近の海と行き来したとみられる。


 このほか、多賀城創建後の奈良・平安時代では、碁盤の目状に道路で区画された古代都市の一端が改めて確認された。先に成果発表した多賀前地区と同様、貞観大地震(869年)の津波で運ばれた可能性のある砂層も見つかっており、専門家に分析を依頼している。


 震災復興関連の三陸自動車道拡幅などに伴う調査で、他県からの職員応援も得て進めている。毎日新聞 11月10日





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平岡遺跡:縄文前期後半の集落跡 竪穴住居14棟など出土


 県埋蔵文化財調査事務所(富山市五福、岸本雅敏所長)は7日、同市池多の平岡遺跡から縄文時代前期後半(約6000〜5500年前)の集落跡が見つかったと発表した。同時期の集落跡としては、立山町下田の吉峰遺跡に次ぐ規模という。10日午前10時〜正午、現地説明会がある。
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 道路建設に伴い、同事務所が今年6月から、約2250平方メートルを調査。その結果、竪穴住居14棟をはじめ、建物の柱穴、墓と、土器や石器などが多数見つかった。住居跡は、直径約100メートルのドーナツ状に点在。その内側には焼けた石が置かれた墓穴があり、墓域を囲んで住居がある「環状集落」という。この時代の集落としては珍しく、いずれも保存状態は良好。

 そのうち直径約6メートルと大きめの住居跡には、食糧を保存したとみられる深さ約80センチの貯蔵穴三つがあり、中心部にはいろりの跡と見られる焼けた土が見つかった。またその周囲には違う土をブロック状にして張り固めてあった。ほかに石の耳飾りや「管玉」と呼ばれる穴を開けた石のアクセサリーなども多数発掘。土器については東方系の「諸磯土器」や、西方系の「北白川式」などが同時に発掘され、東西文化が混在していることが分かる。

 周辺は、ファンや住民が縄文土器を見つけることでよく知られた遺跡だが、本格的な調査は初。同事務所の町田尚美主任は「県内では少ない縄文前期の集落の様子が分かるほか、当時の建物の構造や物流などが解明できる貴重な史料となるだろう」と今後の分析調査に期待している。毎日新聞 11月8日


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2012年10月04日

貴重な絹織物「経錦」を確認

 1983年に筑波大学が発掘調査を行った茨城県土浦市上坂田の武者塚古墳の出土品の中から布片が見つかり、鑑定調査の結果、古墳時代末期(7世紀)の高級絹織物である「経錦(たてにしき)」であることが確認された。

 土浦市上高津貝塚ふるさと歴史の広場考古資料館によると、経錦が見つかったのは、茨城県ではかすみがうら市の風返稲荷山古墳に次いで2例目だという。

 経錦は、複数の色糸を縦糸に使う織物で、製作が非常に難しいことから、8世紀半ばからは姿を消した。今回確認されたのは、5ミリから2センチ程度の18片。4年前に筑波大から出土品の返還を受けた同資料館が最近になって整理を進める中で発見。今年3月に受けた鑑定で経錦であることが判明した。

 同資料館の茂木雅博館長は「発掘時には大きな1枚の布だったはず。慎重に調査をしていればという残念な思いもあるが、経錦と確認できたのはよかった。しっかり調べれば、(全国の古墳で)もっと見つかるのではないか」と話している。時事通信 10月4日

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屋敷裏遺跡の住居跡から豪華な壺 なぜ古墳の副葬品が…

 羽生市名の利根川沿いに位置する屋敷裏遺跡で、古墳時代後期の住居跡から須恵器の壺が出土した。豪華な装飾の施されたトロフィーのような壺は、豪族が眠る古墳の副葬品として作られたもので、住居跡から発見されるのは稀。県内では類例がないという。しかも壺部分と台部分は別々の住居跡で見つかっており、謎は深まるばかり。誰が、どんな目的で所有していたのか。古代のミステリーに迫った。

■ステータス

 屋敷裏遺跡は縄文時代から平安時代に至る複合遺跡。利根川の堤防強化工事に先立ち、県埋蔵文化財調査事業団が昨年4月から今年3月にかけて発掘調査を実施したところ、古墳時代65軒を含む94軒の住居跡が発見された。

 トロフィー形の壺は6世紀後半の「脚付長頚壺(きゃくつきちょうけいつぼ)」で、高さ約40センチ。壺部分に「カキ目」と呼ばれる横線が、台部分には円形や四角の透かし穴が施されている優品だ。土の質感から、産地は群馬県太田市の金山窯が有力視されている。

 古墳時代はまだ須恵器を作る窯が少なく、庶民は須恵器をまねた土師器を使用していた。須恵器の所有は豪族としてのステータスを示すが、同事業団は「これだけ立派な壺は、ある程度の力がないと持てない。なぜ集落の家にあったのか」と首をひねる。

■お蔵入り?

 壺部分と台部分が別々の住居跡から出土している点も興味深い。自然災害で本来の場所から移動した可能性について、同事業団は「20メートルほど離れた場所にあり、川の氾濫などで流されてきたとは考えにくい」と否定。容器としての転用も「壺部分は使えるかもしれないが、台部分は難しい」という。

 日用品ではない根拠は、須恵器の持っていた価値からも説明できる。現代で例えるなら「舶来の高級品」で、庶民の手には渡らない代物。にもかかわらず、一帯の住居跡からは高杯(たかつき)や背の低い脚付短頚(たんけい)壺、丸底壺といった数点の須恵器も見つかっている。

 そこで浮上するのが、副葬品の調達を担う人物が住んでいたという推測。「豪族に納めるはずの副葬品が何らかの原因で破損したので、隠しておいたのではないか」と同事業団。ほかの須恵器は脚付長頚壺に比べてやや見劣りし、「お蔵入り」になったとの見方も。ただ、これも確固とした裏付けはない。

■永明寺古墳

 豪族の墓に捧げられるべき貴重な壺が、なぜ庶民の家にあったのか。謎を解く鍵として注目されているのが、屋敷裏遺跡から西に約1キロ離れた村君古墳群にある「永明寺(ようめいじ)古墳」だ。

 市内最大、全長78メートルの前方後円墳からは鎧(よろい)の一部である鉄製の「挂甲小札(けいこうこざね)」などが見つかっており、有力な豪族がいた可能性が高い。古墳時代中期の築造と脚付長頚壺とは年代が前後するものの、同事業団は「何世代にもわたって古墳が使われる中で、壺が関わっているのではないか」とみて、屋敷裏遺跡出土品の整理作業を進める。
埼玉新聞 10月4日
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聚楽第の本丸石垣発見

 豊臣秀吉が造営し、1587年に完成した城郭風の邸宅「聚楽第(じゅらくだい)」本丸南堀の石垣の一部が、京都市上京区須浜町で見つかった。京都府埋蔵文化財調査研究センターが4日発表した。聚楽第の発掘調査では、北の丸の堀で石垣の一部が見つかっているが、本格的な石垣が確認されたのは初めて。

 同センターによると、発掘された石垣は花こう岩が2段に積まれており、高さは約80センチ。一つの石の高さと幅は40〜50センチで、全部で6列確認された。

 本丸は東西200メートル、南北に330メートルあったと推定され、見つかった石垣は深さ7メートルの堀の底に近い部分とみられる。周辺では金箔(きんぱく)が施された瓦片3個も見つかった。

 秀吉は、おいの秀次に関白職とともに聚楽第を譲ったが、嫡男の秀頼が誕生すると秀次を切腹に追い込んだ。聚楽第も完全に破壊され、遺構はほとんど見つかっていなかった。時事通信 10月4日
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2012年09月27日

被災の古文書、修復へ

 国立国会図書館は26日、東日本大震災の津波で傷んだ岩手県指定有形文化財の古文書「吉田家文書」を来月から2年間かけて修復すると発表した。
 吉田家文書は、仙台藩で租税事務などを担当する「大肝入」(おおきもいり)を世襲していた吉田家に伝わる文書類。1750年(寛延3年)から1868年(明治元年)の執務記録が残され、岩手県陸前高田市立図書館が所蔵していた。
 同図書館は津波で全壊し、流失を免れた吉田家文書もカビの発生や腐食が判明、岩手県教育委員会が計141冊の修復を依頼していた。時事通信 9月26日
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2012年09月20日

古代アンデス文明、最古級の指導者の墓発見

 ペルー北部・アンデス山中のパコパンパ遺跡を発掘調査している国立民族学博物館(大阪府吹田市)など日本・ペルーの合同調査団は20日、金製品が副葬された紀元前700年頃の指導者とみられる人物の墓が見つかったと発表した。

 古代アンデス文明で確認されている中では、同国のクントゥル・ワシ遺跡などと並び、最古級の指導者の墓とみられる。

 首都リマの北北西約700キロ、標高約2500メートルにある古代アンデス文明形成期(紀元前2500年〜紀元前後)の遺跡で、2005年から調査している。

 墓は楕円(だえん)形(長径約90センチ、深さ約25センチ)で、性別不明の1人分の人骨が、頭を南に向け、膝を抱えるような姿勢で見つかった。下あごの近くで金製のリング状の飾り(直径2センチ)や石製の管玉(長さ0・5センチ)が副葬されていた。読売新聞 9月20日

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2012年09月13日

捨て場遺構:五城目・中山遺跡で発掘 縄文後期後葉、県内2例目

 縄文時代晩期(3000〜2300年前)に北海道南西部から東北にかけて栄えた「亀ケ岡文化」を中心に研究している弘前大亀ケ岡文化研究センターは12日、五城目町高崎の「中山遺跡」の発掘調査で、木の実の殻がまとめて捨てられた跡の「捨て場遺構」や、保存状態が良好な漆塗りの土器などが見つかったと発表した。捨て場遺構は縄文時代後期後葉3500〜3000年前のもので、同時期の遺構が見つかったのは県内で2例目。

 同遺跡は1900(明治33)年以降、3回の発掘調査が行われている。今回の調査では、中山遺跡にある丘陵地の南側にA区とB区の2カ所の区画を設け掘削調査した。

 A区は3500〜3000年ごろの地層が地表から約1・5メートルの位置に分布しており、トチやクルミの殻がまとめて捨てられた跡の「捨て場遺構」が見つかった。過去の調査でもトチやクルミの殻は見つかったが、今回の殻は中の実がすべてなくなっており、まとまって存在していることから、ヒトが食用などにして殻を捨てた跡と推定する大きな材料という。ほかに土器の破片なども見つかった。

 B区は3200〜2800年ごろの地層。丸い土器のつぼ(高さ約15センチ、直径10センチ)やくしなどの漆器、さじや皿などの石製品が見つかった。


 A、B区とも大量の土器や石器の破片のほか、花粉や植物の種子なども見つかった。

 同大日本考古学研究室の上條信彦准教授によると、中山遺跡は低湿地にあり、泥に埋もれているため微生物の分解作用が抑制され、植物の種子や殻、漆製品の表面などの保存状態が良好だという。上條准教授らは採取した種子などをふるいにかけて数量を分析。当時の縄文人がどれだけの植物を消費していたかを推定したり、種子のDNA分析で栽培用の植物だったかなどの解析を進めている。

 上條准教授は「捨てられた種子などの分量を推定することで、当時どれくらいの人が生活していたかなど、当時の生活様式が分かる。今回の調査の成果は大きい」と話している。毎日新聞 9月13日
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2012年09月12日

信長も使用?金沢・石浦神社で見つかる

 金沢市本多町の石浦神社の保管品の中から、戦国時代の武将、織田信長の家紋が入った槍(やり)が見つかった。同神社の長谷吉憲宮司(37)によると「家紋に加え、信長ゆかりの神社に家臣の子孫が槍を奉納したとの記録もある。信長自身が使った可能性もある」という。今後、専門家に正式な鑑定を依頼する方針。

 長谷宮司によると、槍は元々、同市野町の泉野菅原神社が所蔵していた。同神社が00年に火災に遭った後は、石浦神社で保管している。泉野菅原神社は加賀藩2代藩主の前田利長の正室、永姫(玉泉院)が建立。信長は永姫の父であることから、江戸時代から信長をまつっていたとされる。

 槍の柄の先端には信長が使用していた「木瓜」の家紋が刻印されている。槍を奉納した際の「由緒書」には信長の家臣の子孫が明治時代、泉野菅原神社に奉納したと記されていた。槍の穂は現存せず、漆塗りの柄は00年の同神社の火災で一部が焼け、保存状態は良くない。金沢市文化財保護課は「詳しい鑑定もしておらず、今の段階では、信長に関係したものかなどは判断できない」と話している。

 長谷宮司は「信長との関連が伝わる神社に奉納された経緯も含め、信長ゆかりの品の可能性もあり、市民の宝として保存したい」と話している。毎日新聞 9月12日
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出土のガラス玉、古代ローマ帝国製か…広島

 広島県三次市東酒屋町の松ヶ迫矢谷遺跡(3世紀前半)から出土したガラス玉3点(直径約1センチ)が、古代ローマ帝国で作られたガラスを素材にしていた可能性の高いことがわかった。

 当時の交易や交流の姿を示す貴重な史料になりそうだ。

 県立歴史民俗資料館(三次市小田幸町)が発表した。ガラス玉は1977年、三次工業団地造成に伴って行われた発掘調査で、埋葬施設から出土。コバルト色で、長さ7・3〜7・9ミリ、直径8・8〜9・9ミリ。中央に穴が開けられ、装身具の一部に使われたと推測されている。

 3月、奈良文化財研究所(奈良市)が、蛍光エックス線などで分析。その結果、ローマ帝国産ガラスの特徴である、「ナトロン(蒸発塩)」が使われていることが確認された。ガラスの産地は地中海沿岸から中東にかけてのエリアと考えられるが、玉形に加工したり、色づけしたりした地域は不明だという。

 同資料館の下津間康夫学芸課長は「ローマ帝国産のガラスで造られたと推測されるガラス玉では、国内最古級。1800年前の物流が確認できる貴重な史料」としている。

 ガラス玉は14日から同資料館で開かれる秋の特別企画展「中国山地の原始・古代」で公開される。読売新聞 9月12日

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石田堤の跡を発見 行田の個人宅敷地内で 古墳崩し建設か

 行田市堤根地区で行われた発掘調査で石田堤の一部が見つかった。石田堤が発掘で発見されたのは初めて。

 石田堤は天正18(1590)年に石田三成が忍城を水攻めした際に築いた堤の一部。全長は14キロとも28キロともいわれるが、大半は取り崩され、現在は同地区を中心に点在するだけになっている。

 発端は個人住宅の建設に先立つ発掘調査。発掘された堤は上半部は崩れていたが、基礎部分はしっかりと残っていた。堤は東側から西側にかけて、斜めに土を積んでいた。堤からは埴輪(はにわ)や土器の破片も見つかり、付近の古墳や遺跡を取り崩して堤を築いたことを暗示させた。

 また堤を築く際に、目印となるくいを打った跡と思われる穴が見つかったほか、堤の外側すそ部分に盛り土をして補強していたことなど、堤の築き方がうかがえる興味深い発見もあった。

 同市教育委員会文化財保護課の中島洋一課長によると、付近には土が盛り上がっている部分もあり、以前から石田堤がある場所ではないかと考えられていたという。

 中島課長は「鴻巣市吹上地区にある堤と同じ構造なことも分かった。これが石田堤の解明につながれば」と期待していた。埼玉新聞 9月11日

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2012年09月03日

「黄泉の国」を調査 NPO、出雲・猪目洞窟遺跡など

 古事記に記されている出雲国(島根県)の「黄泉(よみ)の国(穴)」について、NPO法人洞窟環境NET学会(本部・大阪市)が、有力地とされる猪目洞窟遺跡(出雲市猪目町)や同遺跡から西約1・5キロの脳島(なづき)の巨大洞窟など5カ所と関連する3神社を訪れて初調査した。

 訪れたのは、世界中の洞窟を調査して文化遺産を守る活動している同学会長で工学博士の沢勲・大阪経済法科大名誉教授(74)、同会員の由良薫・同大客員教授(70)ら。

 脳島の巨大洞窟には、「銅山を訪ねる会」の梶谷実代表が鷺浦港から船で案内。沢会長らはレーザー距離計で洞窟の高さ、奥行きなど規模を実測した。

 また、黄泉の国の入り口とされる黄泉比良坂(よもつひらさか)と揖夜(いや)神社(松江市東出雲町)のほか、出雲神話でオオクニヌシが国造りの際に仮住まいしたとされ、万葉集にも詠まれる静之窟(しずのいわや)(大田市静間町)などにも足を運んで測量、聞き取り調査を行った。

 沢会長は「洞窟はどれも神々の国らしく人の手が加えられた形跡が少なく、太古の自然の形が良好な形で伝っている。出雲国風土記や万葉集など文献に照らし、詳細に検討する」などと話した。9月2日産経新聞






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2012年07月22日

800年前中井町で盗難、曽我兄弟仇討ち縁の仏像が山形で発見

 鎌倉時代に中井町から「行方不明」になっていたとされる仏像が、山形県鶴岡市の寺院に保存されていることが分かった。持ち去ったとみられるのは、曽我兄弟の仇討(あだう)ちで討たれた工藤祐経の一族。伊豆から逃亡する際に一門の守護を願って運び出したとの伝承の存在が、最近になって一族の子孫から関係者を通じて町にもたらされた。現地で確認した中井町の住民らは、800年余の時を経て解きほぐされた謎にさらに迫ろうと、詳細な調査や両市町の交流を描いている。

 もともとは中井町にあったとされているのは、鶴岡市大鳥地区の龍雲院にある大日如来坐像。青銅製で鎌倉時代の作とされ、市指定文化財となっている。

 地元で語り継がれる「落人伝説」によると、源頼朝の配下にあった工藤祐経が曽我兄弟に討たれた後、身の危険を感じた弟の祐茂は伊豆を離れ、6年間の流浪の末、大鳥地区に村を開いた。この際、「相模の国田中の森」に鎮座していた大日如来像を持参していたと伝えられていた。

 一方、中井町半分形(はぶがた)では、持ち去られた大日如来像の後継として作られた木製の如来像が自治会館に安置され、町の指定重要文化財にもなっている。

 木製如来像の内部に納められていた「大日如来之記」には「俗(賊)難のために、行き方知れず」とあり、何者かに盗まれたため仏像を作り直したことが記されていたが、どこに持ち出されたかは杳(よう)として知れなかった。

 出自と行く末の分からぬ二つの仏像を結んだのは、工藤一族の子孫に当たる斉藤登美子さん(72)=千葉県野田市。大鳥地区に伝わる大日如来像の由来記を昨年、書にしたためて奉納した際、「相模の国田中の森」の記述にあらためて注目した。何らかの手掛かりが得られればと、知人で厚木市に住む渡辺芳子さん(75)にも同じ書を提供。渡辺さんが「田中」という地名が実在する中井町に書を送るなどしたところ、行方不明になった仏像があることが分かった。「田中」は「半分形」に隣接している。

 これを受け、今年3月まで町文化財保護委員を務めた森茂さん(79)=同町半分形=ら有志が6月に鶴岡を訪問。龍雲院で大日如来像を確認し、祐茂の墓にも参拝した。森さんは「まさか山形にあったとは驚いた。歴史の深みに触れた思い」と驚きつつ「如来像の年代測定は行っていないが、経緯などに関する記述は合致している。曽我に近い中井をなぜ通ったのかなど謎はたくさんある。今後も調査を続けたい」と歴史浪漫に思いをはせる。カナロコ 7月22日
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