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2009年02月28日

坂上田村麻呂の坐像を公開 99年ぶり

 京都市東山区の清水寺で28日、平安時代の征夷(せいい)大将軍として知られ、寺の創建者とされる坂上田村麻呂(758〜811)を祭る国の重要文化財「開山堂(田村堂)」の開帳法要があった。開帳は1910年以来99年ぶり。来年が田村麻呂の1200年忌にあたることから、1年前倒しで公開された。

 現在の開山堂は江戸時代初期の再建。檜皮(ひわだ)ぶきの入り母屋造りで、田村麻呂(高さ78センチ)と高子夫人(同80センチ)の坐像(ざぞう)を収めている。像がいつ作られたかは不明。

 一般公開は3月1日〜5月31日で、拝観時間は午前9時〜午後4時。 (2月28日毎日新聞)





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木所遺跡:野津の新たな歴史浮かぶ 臼杵市教委、あす現地説明会を開催

 臼杵市教委は3月1日午後1時半から、同市野津町烏岳で発掘調査した木所遺跡の現地説明会を開く。同遺跡からは旧石器時代、縄文、鎌倉、室町時代などの遺構・遺物が確認されている。

 農業基盤整備に伴い、昨年12月〜今年2月に発掘調査した。市教委は、他に複数発掘現場を抱えていることや調査期間が短い割に面積が4000平方メートルと広いことから、専門会社に発掘調査を委託した。発掘調査の委託は初めてで、委託費は2350万円。

 鎌倉時代の遺構として、周辺地域の支配者に関係するとみられる掘立柱建物4棟を確認した。出土物から推測される建造時期は12世紀後半。市教委は「臼杵石仏が建立された時期であると同時に、鎌倉幕府の御家人が続々入ってくる激動期でもあり、野津地域の新たな歴史を浮かび上がらせる」としている。 (2月28日毎日新聞)



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平安時代の「のろし」跡発見、宮城県の2遺跡から

 宮城県の宮沢遺跡(大崎市)と鶴ノ丸遺跡(栗原市)で出土した平安時代前半の遺構が、当時、通信手段とされたのろし「烽(とぶひ)」を上げた跡とみられることが分かった。

 県多賀城跡調査研究所の古川一明・上席主任研究員が学会で発表した。「烽」は日本書紀に記されるなど、存在はわかっているが、実際に使われた遺構は確認されていないという。

 遺構は、直径約3〜5メートル、深さ約1〜2メートルのすり鉢状のくぼみで、宮沢、鶴ノ丸遺跡で2基と3基あった。いずれも見晴らしのよい丘の上にあり、8世紀末〜9世紀後半ごろのものと見られている。両遺跡は、蝦夷(えみし)に対する朝廷側の拠点「城柵(じょうさく)」やその近くにある。

 遺構は、昭和50年代に東北自動車道の建設に伴う発掘調査で出土したが、詳細な調査は行われなかった。古川研究員が、当時の資料を再検討し、焼土や幾層にも重なった炭化物があったことなどから、烽の場所と推定したという。 (2月28日読売新聞)





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天平時代の瓦出土 茨城・瓦塚窯跡遺跡

 茨城県石岡市部原の「瓦塚窯跡(かわらづかかまあと)遺跡」(県指定文化財)で、谷を挟んだ南北地域から計5基の窯跡が確認された。特に、南側の窯跡の灰原(はいばら)からは聖武(しょうむ)天皇の命により天平(てんぴょう)13(741)年に全国で建立された国分寺(こくぶんじ)の創建期までさかのぼる瓦片が出土。窯跡は国分寺の補修用の瓦が焼成されていたとする従来の定説を覆し、創建期から本格的に操業が行われていたことが判明した。

 市文化振興課によると、窯跡の範囲は谷の北側にあると推定されていたが、今年度調査で南側から窯跡2基が確認され、遺跡の範囲が広がった。南側の窯跡で採集された瓦片の出土で、約50年ほど時代がさかのぼるとみられる。

 同課の小杉山大輔学芸員は「南側からの窯跡の存在はまったく予想がつかなかった。また、北側の窯跡の灰原から出土した文様(もんよう)のついた瓦片(常陸国分寺軒丸瓦(のきまるがわら)・軒平瓦(のきへいがわら))も、学術的に貴重なものが見つかった」という。

 現地は、昭和50年代の北側だけの測量調査で、窯跡23基があると推定されており、全体像が確認されれば、県内最大とみられていた「松山瓦窯跡」(旧千代田町)をしのぐ瓦窯遺跡となる可能性が高い。

 現地説明会は28日と3月1日。両日とも1日6回、担当職員が解説を行う。 (2月28日産経新聞)



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2009年02月27日

古代エジプトの木棺発見

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 早大調査隊が発見した古代エジプトの木棺(エジプト考古学最高評議会提供)。評議会によれば、新王国第19王朝時代から末期王朝時代の間(紀元前1300ー同330年)ごろのものという。木棺は略奪に遭い空だった。 (2月27日時事通信)


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縄文人の漁の仕掛け出土 奈良・橿原市

 奈良県橿原市の観音寺地区遺跡で、縄文時代晩期(約2800年前)の樹木の根株30本分がまとまって見つかり市教委が27日、発表した。幹は直径1メートル近いものもあり、大地にしっかり根を生やした状態で出土。木は、洪水で一気に埋まり、地中で真空パックされたため残ったとみられ“縄文の樹海”をほうふつとさせる資料として注目される。

 一方、川跡からは、直径1・8メートルのサークル状に杭(高さ20〜80センチ)を34本並べた遺構を確認。杭の間につるをからませて、上流から泳いできた魚を追いつめる「定置式漁法」の仕掛けと判明した。 (2月27日産経新聞)



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平安末期の船形木製品 滋賀・塩津港遺跡で出土

 滋賀県西浅井町の塩津港遺跡で、平安末期の精巧な船形木製品が26日までに見つかった。県文化財保護協会や研究者によると、同時期の船形木製品は全国的にも珍しく、梁(はり)や帆などの構造が分かる作りも極めて異例という。室町期ごろに登場したとされる構造船の形態を示しており、その歴史を200年ほどさかのぼる。県教委と同協会は「日本の船史と琵琶湖研究に欠かせない一級の資料」としている。


 ■「構造船」 歴史200年さかのぼる?

 船形木製品は長さ17・3センチ、幅4センチ。一部に着色がある。平底で、船尾が切り落ちた特徴を持ち、船体には梁2本が前後に渡る。側壁部には木片で埋めた穴が等間隔に計10カ所ある。船首に削り跡とくぎ穴、前部梁にへこみがあり、旗や帆があった跡とみられる。

 神像5体が見つかった神社遺構の堀跡付近で発見した。同遺跡からはほかにも運送業者の大型起請文木簡が見つかっており、船形木製品も航行の安全祈願のため運送業者が奉納したとみられる。

 県教委や同協会などによると、平安末期以降の船や船形木製品の出土例は全国でも非常に少なく、古代から船が重要な交通手段だった日本でも、その進化過程は明確ではない。今回出土した船形木製品は写実性が高く、実船をモデルにしたとみられ、歴史を埋める資料になりそうだ。
 同協会は「構造がはっきり分かる姿で資料価値が極めて高い。設計の自由度が高く、大型化も可能な構造船をいち早く導入していたのは大量の物資を運んでいた証拠。都への物流で大津−塩津航路の重要性がより明確になった」としている。  (2月27日京都新聞)





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国内最大級の尖頭器を発見 栃木・矢板市

 矢板市教委は、「高原山黒曜石原産地遺跡群」(同市下伊佐野)の平成20年度調査で、黒曜石の大型尖頭器(せんとうき)(石やり)を発見したと発表した。国内で出土した尖頭器の中では最大級とみられる。

 尖頭器は剣ケ峯(標高約1400メートル)付近から出土した。長さ約14センチで、両面に加工が施されていた。地層などから、旧石器時代から縄文時代早期にかけて(1万5000〜1万2000年前)のものとみられる。周辺からは2万点以上の石器や黒曜石の原石なども出土した。黒曜石の原石を採取するために掘ったと考えられる土抗も確認された。

 市教委などは「縄文時代早期に黒曜石の大規模な採掘が行われていた可能性が高い遺跡と考えられ、加工が行われていることも明らかになった」と説明。「今後の調査でより正確な時期を特定し、遺跡の範囲も明確にしながら国指定史跡につながるよう取り組みたい」としている。

 また、19年度の調査で見つかった黒曜石採掘抗は当初、国内最古の約1万9000年前のものと推定していたが、その後の放射性炭素年代測定で9000〜8500年前の縄文時代早期のものと判明した。 (2月27日産経新聞)




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弥生人はウルトラマン似? 京都・与謝野町で人面土器

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 京都府与謝野町の環濠(かんごう)集落跡「温江(あつえ)遺跡」で、弥生時代前期(紀元前4世紀ごろ)の人面付き土器が出土し、府埋蔵文化財調査研究センターが26日、発表した。頭髪を後頭部で結ったような独特な形状をしており、同センターは「ウルトラマンにも似ている。穏やかでのっぺりとした当時の日本人の表情を知るうえで貴重な資料」としている。

 土器は集落南側の溝(幅約2メートル、深さ約1・2メートル)から出土。首から下の部分は欠落しており、長さ、幅は各7・6センチ、奥行き7・1センチ。頭部にまげのようなものがあり、目と口は横線で表現され、両耳に貫通した小さな穴があけられているのが特徴で、農耕祭祀などに使われた可能性があるという。

 土偶や埴輪に詳しい大阪府文化財センター南部調査事務所の大野薫所長は「日本に農耕技術を伝えた大陸系の人の顔立ちが投影され、縄文人とは異なる当時の『新しい日本人』の表情を知る手掛かりになる」と話している。

 土器は3月15日まで町立古墳公園はにわ資料館で展示される。(2月27日産経新聞)


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奈良・帯解黄金塚古墳 被葬者は皇族クラスか

 「有力氏族か、皇族の墓なのか」。7世紀中ごろ(飛鳥時代)の立派な外装を伴う方墳だったことが26日、明らかとなった奈良市の「帯解黄金塚古墳」。墳丘周囲の石敷き帯は当時の最新技術だった寺院や宮殿の基壇周囲の構造を取り入れた可能性があり、被葬者はだれかという新たな謎も浮上している。古墳時代終末期の方墳をめぐって研究者らはさまざまに推測している。

 20センチ大の石が並べられた2段構造の石敷きは外周を縁石で区画されていた。石敷きはマルコ山古墳(奈良県明日香村)や中尾山古墳(同)などにも見られるが、黄金塚古墳は石が帯状に整然と並べられ、古代寺院などの基壇周囲に似ていて全国でも珍しいという。

 森下恵介・市埋蔵文化財調査センター所長は「石敷きはすそ部を引き締めて見せる効果がある。寺の基壇周囲を取り入れたのではないか」と話す。

 一方、河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は「終末期古墳としてはたいへん立派。石敷きは建築物の影響では」と指摘。板石を積んだ磚(せん)積みの横穴式石室が大陸の影響を受けていることに注目し、被葬者を「渡来系氏族の人物ではないか」と推測する。

 白石太一郎・奈良大教授(考古学)は「この時期の古墳は石で化粧することが多く、黄金塚は立派に造られている。被葬者は有力氏族か皇族ではないか」と説明した。

 飛鳥時代に奈良盆地北東部で一級の古墳が築かれた理由など解明する課題はなお多く、市教委は周辺の追加調査を検討するという。
 (2月27日産経新聞)





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2009年02月22日

日本最古の舟形木棺出土=名古屋

20090221-00000015-jijp-soci-view-000.jpg  名古屋市北区の病院建設予定地から、最古とみられる舟の形をした木棺が発見された。約2000年前の弥生時代中期のものとみられ、これまでに発見された舟形木棺より約200年さかのぼるという。舟形木棺は死者を死後の世界に送るための乗り物といい、同市文化財保護室は「弥生時代の死生観を知る貴重な発見」と話している。

 同室によると、発見されたのは同区平手町1の「平手町遺跡」。木棺は長方形型の方形周溝墓(11メートル×7.5メートル)の中央付近で見つかり。長さ2.8メートル、最大幅が0.8メートルの舟形で、舳先側に足側を入れるよう収容されていたという。内部からは鎖骨などの人骨が発見され、身長155センチの成人とみられる。

 棺は頭部側が南東、足側が北西を向いており、同室は「太陽の沈む西側に向けた舟葬の方式とみられる」と分析している。舟葬は弥生時代から古墳時代まで続いた風習といい、今回の木棺からは木製容器の副葬品が1点見つかっている。

 舟形木棺はこれまでに京都府京丹後市の「金谷1号墓」で、約1800年前の弥生時代末期とみられるもの見つかっており、今回の発見で約200年さかのぼる。また、金谷1号墓は木棺の痕跡があるだけで、ほぼ完全な形で木棺が発見されたのは初めてという。

 昨年7月から発掘作業を進め、先月末に発見した。同室の鈴木寿雄室長は「現場は粘土質のため、適度な水分が保たれていたため、棺が朽ちることがなかったと思う」と話す。乾燥させるなどの保存処理をし、一般公開されるのは1年後になるという。 (2月21日毎日新聞)


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2009年02月20日

水鳥形の子持ちの鳥形埴輪出土 兵庫・朝来の池田古墳

 古墳時代中期(5世紀前半)の王墓とされる「池田古墳」(兵庫県朝来市和田山町)で、最古の水鳥形をした子持ちの鳥形埴輪(はにわ)が全国で初めて出土し、県立考古博物館が20日、発表した。周濠そばの墳丘のすそ部で見つかり、同博物館は「水を使った『導水祭祀』の道具として置かれたらしい」としている。

 池田古墳は全長約141メートルで、但馬地方最大の前方後円墳。出土した水鳥形の埴輪はガンやカモをかたどっており、子鳥の大きさは長さ約10センチ、高さ約6センチ。鳥形埴輪のそばで4個出土した。出土状況から、親鳥の周りを囲むように置かれた可能性が高いという。

 鳥形埴輪はほかに6個が見つかり、墳丘と外部を結ぶ道路の役割を果たしていた「渡土堤(わたりどて)」の斜面に施された葺石付近でも等間隔で出土した。

 花園大学文学部の高橋克壽・准教授(考古学)の話「古墳のすそに水を用意して、墳丘をこの世と異なる他界とみなし、そこへ魂を運ぶ意味を込めて水鳥を置いたのではないか。この時期から『葬るだけ』から『あの世』への意識が高まったとみられる」。 (2月20日産経新聞)





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中世の瓦窯跡発見 北山の廃寺・三嶋遺跡(和歌山)

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 和歌山県文化財センターは19日、紀の川市貴志川町北山の北山廃寺、北山三嶋遺跡で鎌倉〜室町時代の瓦窯跡を発見したと発表した。瓦窯に加え、瓦作りに必要な粘土採掘穴と工房の「3点セット」確認は県内で初めて。同センターは「中世の瓦生産の状況を知る貴重な史料。古代の瓦の失敗作も出土しており、長く生産地であった可能性もある」と話している。

 北山廃寺は奈良時代(約1300年前)の古代寺院、北山三嶋遺跡は弥生時代(約2000年前)から中世(約600年前)の遺跡で、双方の範囲は重なっている。調査は2年で、本年度は昨年10月から約7450平方メートルで行った。

 発見した瓦窯は2基でともに土作り。東側の窯は幅1メートル、奥行き1・3メートル、深さ50センチほど。焼成部を確認した。西側の窯は大半が調査区外で詳細は不明。東側の窯から出土した瓦片の「均整唐草文」などから、生産時期は14世紀と推定している。

 瓦窯跡の南西側には直径1〜3メートルの穴が100個以上あり、瓦の材料となる粘土を採掘した跡と考えられている。窯の東側では2棟の掘立柱建物跡があり、位置関係からも瓦の製作工房である可能性が高いという。

 周辺からは焼き損じた奈良時代の瓦が多数出土していて、調査区の北側に当時の瓦窯跡があるとみている。瓦窯が面している谷は地元で「カワラダニ」と呼ばれており、同センターは今回の発見で、瓦を生産していたという伝承が裏付けられたとしている。 (2月20日紀伊民報)



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花岡木崎遺跡:奈良時代の木簡出土 駅家跡の可能性高まる−−芦北町 /熊本

 県教委は19日、芦北町花岡の花岡木崎遺跡(古墳時代〜中世)から「佐色(さしき)」「駅」「路」などの文字が書かれた木簡2個が出土した、と発表した。奈良時代終わりごろの木簡とみられる。古代律令制下で全国に官道が巡らされた際に「佐色」という「駅」が設置されており、周辺の地名「佐敷」が「佐色」にも通じることなどから、県教委は「同遺跡が佐色駅跡である可能性が高まった」としている。

 県教委によると、二つの木簡は深さ2メートル以上ある井戸跡から、素焼き土器などと一緒に見つかった。土器の年代から、木簡は8世紀末〜9世紀初頭のものと推定される。長さ18センチ、最大幅3・5センチの木簡には八つの文字があり漢字で「佐色」と読み取れた。もう一つの木簡は長さ15センチ、最大幅4センチで7文字あり「向路次驛(駅)」「等」が確認された。

 元は1本の木簡だったが、何らかの理由で折れたとみられる。県教委は「文章の意味ははっきりしないが、何らかの命令文書ではないか」としている。

 平安時代の10世紀に編まれた「延喜式」には、全国約400の「駅家(うまや)」の名前が記され、肥後国内には「佐色」という駅家名がある。官道の拠点・結節点として、馬の乗り換えや旅行者の休憩・宿泊に使われたとみられている。

 ただ、これまで駅家跡と確定しているのは兵庫県内の2カ所のみ。出土物から駅家跡と推定されている遺跡は多いが、建物跡や官道跡など“決め手”がない状態だ。県内では、熊本市の熊本大構内にある「黒髪町遺跡」が「蚕養(こかい)」という駅家跡と推定されている。
 県教委は「今後の発掘で当時の建物跡などが確認され、花岡木崎遺跡が駅家跡と確定されることを期待している」と話している。 (2月20日毎日新聞)




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奈良の日葉酢媛陵 研究者ら立ち入り

 奈良市山陵町にある大型前方後円墳の陵墓「日葉酢媛(ひばすひめ)陵」(佐紀陵山古墳)で20日午前、日本考古学協会などの考古学、歴史学の研究者らが立ち入り調査を実施した。同協会など16学会の要望を受け、宮内庁が陵墓や陵墓参考地への立ち入り調査を許可したのは、昨年2月の同陵近くの「神功皇后陵」(五社神古墳)に続き2回目。

 調査は午前9時半から実施。研究者らは立ち入りを認められた墳丘下段に入り、築造当時の形状や大きさ、埴輪(はにわ)列の有無などをじっくりと観察した。 (2月20日産経新聞)



 
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円墳12基を確認 福知山・向野古墳群

 福知山市教育委員会は、同市向野の向野古墳群の発掘調査で、古墳時代後期(5世紀末−6世紀前半)の円墳12基と須恵器や鉄製のやじりなど副葬品約30点が見つかったと、このほど発表した。市教委は「周辺にも同様の古墳があり、古墳群として共通の構造が確認できた」としている。

 宅地開発に伴い、昨年6月から約1600平方メートルを調査した。
 福知山市教委によると、直径5−12メートルの円墳が丘陵の上部で築造され、徐々に築造場所が下部に移ったことを確認した。古墳の中には、上部の古墳の一部を削って造られたものもあった。内部構造から箱形木棺や割竹形木棺などが使われたとみられ、多様な埋葬形態も確認できたという。

 直径約10メートル、高さ約2・2メートルの三十二号墳の内部には、府北部では珍しい上下2段の埋葬跡が見つかった。棺(ひつぎ)が同じ向きに置かれていたとみられ、市教委は「短い期間に親族同士で埋葬された可能性がある」としている。

 須恵器や鉄製のやじりのほか、のみ、短刀などが出土したが、埋葬者などを示すものはなかった。福知山市教委は、この地域の豪族の墓とみている。 (2月20日京都新聞)




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出土の陶片は「宝珠硯」 平城京跡

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 奈良時代の平城京の宅地跡で、約100メートル離れて出土した陶片2点が接合し、猿(さ)投(なげ)窯(愛知県)の高級硯(すずり)「宝珠硯」らしいことが19日、奈良市教委の調査で分かった。

 市教委の異なる時期の調査で見つかった2片がぴたりと合った。宝の珠の形をした約20センチ大の硯で、猿投窯から運ばれたとみられるという。

 奈良市大森町の宅地跡で、建物跡や井戸跡なども出土している。貴族らが使ったかもしれない硯は3月2日から市埋蔵文化財調査センターで展示される。

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大宰府条坊に役所跡 新たに2棟出土 整備で一時的に使用?

 福岡県太宰府市教委は18日、同市朱雀2丁目の西鉄二日市操車場跡で、奈良時代中期(8世紀半ば)の大きな建物跡2棟が出土したと発表した。同操車場跡では昨年も広さが今回の倍ほどの建物跡2棟が見つかっており、市教委は大規模な建物が複数まとまってあることなどから、これらを古代の役所「官衙(かんが)」跡と断定。ただ数十年しか使われなかったとみられ、「大和朝廷の『遠(とお)の朝廷(みかど)』と呼ばれた大宰府を再整備する過程で、一時的に使われた施設ではないか」としている。

 発掘現場の広さは全体で約2。4ヘクタール。2004年度から調査を始め、昨年8月からの第275次調査で、南北約6メートル、東西約12メートルの建物が2棟新たに見つかった。「大宰府政庁」跡から南へ約1キロの地点で、碁盤の目状に道路が走る都市跡「大宰府条坊」のほぼ中央に当たる。

 遺構から見つかった土器などを分析した結果、市教委は長くても50年ほどしか使われなかった施設と考えている。

 大宰府条坊では、役所機能を持つ官衙域と、役人が住む居住域が御笠川を挟み南北に分かれていたとみられている。今回の建物跡から20メートルほど西側で昨年4月に見つかった建物跡は居住域にあるが、大きすぎて用途が分かっていなかった。

 同市教委の中島恒次郎主任主査は「地方の安定を図り大宰府を再整備した過程で、一時的に用いられた施設と推測でき、国の試行錯誤の証し」と話している。 (2月19日西日本新聞)



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上下2段の埋葬施設持つ円墳を発掘 向野古墳群で福知山市教委

 福知山市南羽合で発掘調査をしていた市教育委員会は18日、上下2段に埋葬施設を持つ円墳など計13基の古墳を確認したと発表した。


 現場は府営矢見所団地横の小高い竹林の丘で、民間による宅地造成が計画されている。

 今回調査したのは向野古墳群のうち最も北側にあたる1600平方メートルの区域で、直径5−16・5メートルの円墳が密集していた。それぞれ5世紀末から6世紀前半にかけてのもので、位置関係から、ふもとの弘法川沿いの正明寺・篠尾一帯の谷を治めていた有力者が葬られていると見られる。

 このうち1基は木棺などの埋葬施設(主体部)の真上にも埋葬施設があった。遺物の須恵器の形から、埋葬年代は近くて親子など密接な関係者が葬られた可能性が高い。一つの古墳に複数の人が埋葬される場合、同じ高さの所に並べて埋葬されるケースはあるものの、上下2段に埋葬するケースは非常に珍しいという。

 今回の調査区域の周囲にも古墳が多くあり、向野古墳群全体では計38基になる。治めていた土地が狭い谷筋ながら、50年ほどの短期間にこれだけの古墳が築かれた理由などは、今後の研究にゆだねられる。

 このほか、通常は方位をそろえて造られる主体部が、今回発掘した古墳は方位を重視するよりも地形に沿って造られていた。また土の盛り方などいくつか特徴があり、市教委は「設計や工程を考える上で重要なだけでなく、遺体の埋葬や古墳造成開始時期など葬送儀礼の経過を復元する際の大きな資料になる」としている。 (2月19日両丹日日新聞)



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薩摩遺跡:道路跡の遺構を確認 幹線道「紀路」への道か

 高取町教委は18日、同町の薩摩遺跡で、奈良時代の道路跡と公的施設とみられる建物跡が見つかったと発表した。飛鳥と紀州を結んだ古代の幹線道「紀路」が周辺に通っていたことで知られており、見つかった道路跡は紀路へつながるルートだった可能性もあるという。

 県道拡幅工事に伴い、約480平方メートルを調査。幅約9メートル間隔で並行して南北に延びる2本の溝(幅約60センチ、深さ約40センチ、検出長約20メートル)を確認した。溝は道路に伴う側溝と考えられるが、路面部分は後世に削られて確認できなかった。溝の埋め土からは、8世紀後半の土器が出土。都が奈良から京都にうつるこのころには、道路としての役割を終えたとみられる。

 道路跡の約5メートル東では、同時期の建物跡(東西約5メートル以上、南北約5メートル以上)を確認。柱穴が約1メートル四方と大型なことなどから、公的な施設だった可能性が高いという。 (2月19日毎日新聞)




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