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2009年03月30日

最古の割竹形木棺か? 滋賀・市三宅東遺跡

 大規模な玉造り工房などがあった滋賀県野洲市の市三宅(いちみやけ)東遺跡から、丸太を半分に割ってくり抜いた「割竹形木棺」の蓋(ふた)とみられる弥生時代後期(2世紀)の木製品がほぼ完全な形で出土し、同市教委が30日発表した。

 市教委によると、最古の出土例の一つとして知られる久宝寺1号墳(大阪市八尾市)の割竹形木棺(3世紀)より古く、最初期のタイプとみられる。

 割竹形木棺は、古墳時代前〜中期に、有力な豪族クラスを葬る際に使われた。太い丸太を縦に2つに割り、竹のように中をくり抜いて本体と蓋にする。

 市教委によると、木製品は全長約3メートル50センチ、幅65〜45センチ、厚さ約4センチのスギ製で、水路だった場所から発見された。本体部分が未発見で、実際に人が埋葬された形跡はないが、久宝寺1号墳の割竹形木棺の蓋と酷似しているという。

 滋賀県立大の林博通教授(考古学)は「割竹形木棺は大和王権で墓の様式が整う中で、いくつかの種類の木棺の中から採用され、一般化する。その前段階の現物とすれば、これほど良好に残った例はなく、大変重要な資料だ」と話している。 (3月30日産経新聞)





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「東禅寺文書」を県重文に 広島県文化財保護審が答申

 広島県文化財保護審議会は28日までに、同県三原市本郷町南方の真言宗東禅寺に伝わる古文書「東禅寺文書」を県重文に、4世紀後半ごろに造られた同県神石高原町高光の前方後円墳「辰の口古墳」を県史跡とするよう県教委に答申した。

 東禅寺文書は、鎌倉時代から戦国時代までに書かれた18通の文書の総称。その多くは、15世紀のはじめ、住職に相当する「院主」だった頼真という人物が、領地内の権利関係などを明らかにする証拠品として残すため整理したものという。

 三原市教委によると、最も古い永仁5(1297)年の「地頭尼某下知状」では、蟇沼寺(ひきぬでら)(当時の東禅寺)の院主を誰にするかについて、女性とみられる地頭が、対立していた2人の人物、お互いの主張を聞いたうえで、裁決を下した経緯などを記している。同市教委は「中世の荘園や名田の経営実態を知る貴重な史料」としている。

 一方、「辰の口古墳」は、広島県東部最大の前方後円墳で、墳長77メートル。竪穴式の石室は、約2000枚の板状の石を積み上げて築かれており、内部は長さ約6・7メートル、幅約0・8メートル、高さ約1・1メートルの大きさ。

 県教委文化課によると、古墳の規模や、吉備(岡山県地域)と出雲(島根県地域)両勢力の力が強かった地域にもかかわらず、石室の形状など畿内(近畿)の影響を強く受けた点などが評価されたという。

 このような形状になった理由について同課は、吉備と出雲の弱体化を狙う畿内勢力が、両勢力の牽制(けんせい)に適した場所と判断し、この地域を治める首長に古墳の築造を認めたためとみている。
(3月29日産経新聞)


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古宮遺跡:山田道の側溝確認 素掘りの6メートル分を検出−−明日香 /奈良

 奈良文化財研究所は、明日香村豊浦の古宮遺跡で7世紀前半の幹線道路「山田道」の側溝を確認したと発表した。山田道は、万葉集や日本書紀の記述から7世紀初めに整備されたと考えられ、発掘調査では7世紀中ごろには直線道路として整えられたことが分かっている。山田道の歴史を知る上で貴重な資料という。

 同研究所が住宅開発に伴い、今年2月から56平方メートルを調査していた。整地層を切り込んで造られた素掘り溝(幅1メートル、深さ30〜60センチ)を約6メートル分検出。整地は上部に路面を持つ道路の基礎と考えられるという。

 溝は地形に沿って西に行くほど10〜30度北へ傾いており、過去の調査で、対になる溝と、同じ方位に規制された建物跡が見つかっていることなどから、道路遺構と判断した。

 松村恵司・都城発掘調査部長は「推古天皇の豊浦宮や小墾田宮があったとされる飛鳥川の西の地域は、東側よりも早い段階から整備されたのだろう」と話している。(3月29日毎日新聞)




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2009年03月28日

国宝「円珍勅書」は写し?=和紙に折り目、崩れた行書体

 平安時代を代表する能書家小野道風(894〜966)の直筆とされてきた国宝「円珍勅書」(東京国立博物館蔵)が、実は写しであるとの調査結果を、奈良国立博物館の湯山賢一館長が28日までにまとめた。歴史上著名な人物が書いたとされる文書が直筆ではないと専門家が判断するのは異例で、議論を呼びそうだ。

 円珍勅書(正式名・円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書)は、延暦寺の座主だった円珍を僧の最高位「法印大和尚位」に昇格させ「智証大師」の諡号を贈るとの醍醐天皇の命を伝える勅書。道風が927年(延長5年)に書いたと記録されている。

 湯山館長は写しである理由を、(1)巻紙で出される文書なのに、和紙の行間に折り目を付けて広げた跡がある。折り目は1行ずつ真っすぐ写すために付けたとみられる(2)平安時代の公文書にしては大きく崩れた行書体である(3)署名の上に書かれた官位の文字が著しく小さく不自然(4)前年に出された別の文書に押された「天皇御璽」の印影と比べ「天」や「御」の字形が異なり押印も雑―と説明。

 その上で、和紙の色から11世紀中ごろまでに誰かが写したとみている。

 湯山館長は「あくまで一つの説。道風の書風を伝える貴重な文書であることに変わりはなく、国宝の価値が落ちるわけではない」と話している。調査結果は4月に刊行される「文化財と古文書学 筆跡論」(勉誠出版)に掲載される。  (3月28日時事通信)






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名和下菖蒲谷遺跡:古代山陰道の遺構見つかる 基礎工事の跡も /鳥取

 大山町名和の町道上坪名和神社線近くの「名和下菖蒲谷遺跡」で古代の山陰道とみられる遺構が見つかった。造成時期を示す遺物は見つかっていないが、発見場所が山陰道の推定位置に近く、また12メートルという道幅などから古代山陰道の可能性が高いという。

 発見されたのは幅2・1メートルほどの遺構で、溝の跡や砂を混ぜて強度を高めた跡などが確認された。「波板状凹凸面」といわれる基礎工事の跡も残っており、路面の下に掘ったくぼみをたたき固めて埋め戻すことで路面を強固にした工程が分かる。町道向かいの北側にも同様の遺構があり、道幅は12メートルほどあったと考えられる。また東に450メートルほどの竹林でも道とみられる遺構が見つかっている。

 山陰道は古代の行政区画の一つで、丹波から隠岐までの8カ国で構成。この8カ国を結び、情報伝達と交通の手段として整備された道路もまた「山陰道」と呼ばれている。途中に37の駅が置かれていたという。発見されたのは、伯耆国と出雲国を結ぶ道の一部とみられる。

 宅地造成や町道の改良工事に伴い、町が昨年から調査を進めてきた。

町教委は28日午後1時半、現地説明会を開く。同町名和の鳥取西部農協野菜集荷所に駐車可能。(3月28日毎日新聞)




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縄文土器や丸木船…出土品や写真で紹介 米原で特別展

 縄文時代前期に人が住み、古代から水運の要衝だった滋賀県米原市の琵琶湖岸に焦点を当てた特別展「湊(みなと)・舟、そして湖底に沈んだ村」が31日まで、同市顔戸の近江はにわ館で開かれている。

 米原には琵琶湖と里山の両方があり、古代には湖や川の魚などを朝廷や寺社に納める「御厨(みくりや)」が置かれた。また朝妻湊や米原湊が置かれ、関東や東海方面の物資を坂本、大津を経て京に送る際の湖上運送の重要なポイントだった。

 会場には、縄文土器や長さ5メートルほどの木をくりぬいて作った丸木船の出土品、筑摩神社(同市朝妻筑摩)に伝わる「鍋冠祭」で少女が頭に鍋をかぶる衣装が展示されている。琵琶湖を往来した丸子船の模型や干拓前の入江内湖の写真もある。

 14世紀に地震で朝妻筑摩沖の湖底に沈んだというムラ「尚江(なおえ)千軒」遺跡から出土した瓦も紹介している。 (3月28日京都新聞)




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尼崎で弥生時代のタコつぼ 全国初、シカの絵が刻まれる

 兵庫県尼崎市の東園田遺跡で、シカの絵が刻まれた弥生時代中期後半(1世紀ごろ)のイイダコつぼが見つかり、27日、市教委が発表した。

 瓶(かめ)などに絵が描かれていた例はあるが、タコつぼでは初めて。当時の人間が豊漁を祈念したとみられる。絵画土器の研究の貴重な資料という。

 つぼは高さ8・7センチ、口径が最大4・4センチの楕円(だえん)型。シカは表面にヘラのようなもので描かれていた。胴部に斑点をつけ、鹿毛を表現するなど他の土器では見られない写実的な技法が特徴という。

 同遺跡では、519個のタコつぼが見つかったが、絵があったのは、この1つだけだった。

 市教委によると、「日本書紀」や「風土記」にはシカにまつわる説話が多く残されており、弥生時代もシカは神聖な動物と考えられていた可能性が高い。鹿毛があることから漁を終えた初夏ごろ、豊漁を祈念して描かれたとみられる。

 市立文化財収蔵庫の益田日吉学芸員は「尼崎周辺には古代から大阪湾に面した多くの集落があった。当時の生活や思想の解明に役立つのではないか」と期待している。 (3月27日産経新聞)






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本高弓ノ木遺跡:古墳時代中期の穂摘具が出土 ほぼ完全な形は国内初 /鳥取

 鳥取市本高の本高弓ノ木(もとだかゆみのき)遺跡で、古墳時代中期(約1600年前)のほぼ完全な「穂摘具(ほづみぐ)」が出土したと県埋蔵文化センターが26日、発表した。穂摘具は稲の刈り取りに使う農具で、木製台に鉄の刃先がついている。別々での出土は各地で報告されているが、ほぼ完全な形での出土は国内初という。ひもを刃にひっかけて手に固定して使うことも初めて分かった。

 出土した穂摘具は、木製台が長さ10・4センチ▽幅4・1センチ▽厚さ0・8センチ。刃先が長さ7・2センチ▽幅1・7センチ▽厚さ0・1センチ。刃先側の台の両端には直径3ミリの穴が空いており、そこに棒を差し込み、ひもが外側に滑らないようにしたと推測される。この穴とひもずれ跡などから、ひもによる固定法が突き止められたという。

 木は適度な湿度がないと残りにくく、一方の鉄は湿度に弱いため木と鉄双方が残ることは極めてまれ。埋文センターは「絶妙な湿度バランスが保たれていたのではないか」と推測している。

 大阪府立狭山池博物館の工楽善通館長は「鉄器が農具に普及していく過程や装着法を知る上で極めて重要な資料となる」とコメントしている。 (3月27日毎日新聞)





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2009年03月26日

千石遺跡:奈良〜平安期、農具「大足」全形を発掘 縄文後期の貯蔵穴も /愛知

 豊田市教委は24日、同市上野町の千石遺跡から、縄文時代後期のドングリなどの木の実の貯蔵穴群約40基と、奈良時代から平安時代初期の農具「大足(おおあし)」が見つかったと発表した。当時のままの全形が残る大足の出土は全国でも数例という。

 貯蔵穴は直径0・5〜1・8メートル、深さ0・3〜1メートル。19基の穴の底からは炭化したドングリやトチの実が多数見つかった。東海地方では、貯蔵穴の出土は名古屋市の白川公園遺跡など15遺跡計77基で、約40基がまとまって見つかったのは初めてという。

 大足は田げたとも呼ばれ、水田の土をならすため両足に付けて歩く道具。木製で縦82センチ、幅41センチ。中央の足を乗せる板は縦26センチ、幅12センチ。8センチ前後の間隔で横木が差し込まれている。古代の堤の盛り土の基礎部分から見つかり、堤を築く際の地ならしなどに使われたとみられる。大足は弥生時代中期から昭和30年代まで、ほぼ同じ形で使われていた。 (3月25日毎日新聞)




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<古大内遺跡>古代山陽道の「駅」と確認 兵庫・考古博物館

 兵庫県立考古博物館は25日、同県加古川市野口町の古大内(ふるおうち)遺跡で奈良時代(8世紀)の幹線道路・古代山陽道の遺構が初めて見つかり、当時の駅に当たる「賀古駅家(かこのうまや)」の所在地と確認した、と発表した。博物館は「駅家として、国内最多の馬を抱える規模だった」としている。

 学術調査のため、今月から6カ所(計77平方メートル)を試掘。駅家推定地の中心部やや東寄りで、築地塀(ついじべい)の溝(幅2メートル、長さ約3メートル、深さ60センチ)が見つかった。塀は駅家の中心施設「駅館」(通常80メートル四方)を囲うように設置されていたとみられる。溝の東30メートルでは古代山陽道の側溝跡(幅80センチ、長さ約10メートル、深さ50センチ)も確認された。

 文献などによると、駅家は役人らの馬の乗り継ぎや宿泊のため、官道沿い約16キロごとに設置され、全国に約400カ所あったとされる。一般の駅家が常備する馬は5〜30頭だったが、10世紀に編さんされた「延喜式」には「賀古40疋(ぴき)」の記述がある。

 遺跡はJR山陽線東加古川駅から西約1キロ。周辺の地名や出土品などから、以前からこの地が賀古駅家だと推定されていた。現地説明会は28日午後1時半から。 (3月25日毎日新聞)



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世界最古の鉄器か=日本調査隊、トルコで発見−通説覆す可能性

 トルコにあるカマン・カレホユック遺跡の紀元前2100〜同1950年の地層から鉄器が発見され、世界最古のものとみられることが26日、分かった。加工で出たとみられる鉄のかすなども同じ地層で確認。鉄の使用は、紀元前1400〜1200年ごろに栄えたヒッタイト帝国で始まったとされており、鉄器の調査・分析を担当した岩手県立博物館の赤沼英男上席専門学芸員は「通説を覆す結果だ」と話している。

 鉄器は、中近東の歴史的文化を研究する中近東文化センター(東京都三鷹市)の調査隊が2000年にトルコ・アナトリア半島の同遺跡で発見した。ヒッタイト帝国も同半島にあったとされる。 (3月26日時事通信)

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2009年03月23日

春日、平家重筆、藤原重輔筆の3懐紙 国の重要文化財に /石川

 国の文化審議会は、県立歴史博物館が所蔵する「春日懐紙(紙背春日本万葉集)」と、金沢市立中村記念美術館所蔵の「平家重筆懐紙」「藤原重輔筆懐紙」を国の重要文化財に指定するよう、塩谷立・文部科学相に答申した。いずれも鎌倉時代に和歌などを記した書跡で、当時の歌壇の状況などを知る貴重な資料。県内の重文有形文化財は124件となる。

 県教委によると「春日懐紙」(縦約30センチ、横40センチ)には鎌倉中期、奈良の春日神社の神官や興福寺の僧侶らが歌会で詠み、春日社に奉納した和歌が記されており、計17枚。鶯(うぐいす)や雪など自然を題材にした作品が多い。裏には奈良の歌人で万葉研究の先駆者でもある中臣祐定(1198−1269)が万葉集を書き写しており、この史料価値も高い。もとは加賀藩主・前田家所蔵という。

 「平家重筆懐紙」と「藤原重輔筆懐紙」は鎌倉初期のもので、縦30センチ、横50センチの紙に各1首の和歌が記されている。いずれも遊興の席上、公家から遊女に餞別として贈られた珍しい書跡で、都から舟で帰る遊女の姿を感傷的に詠んでいる。宴席で記した「酔筆」で、「みやこのことやしのふらん」の2番目の「の」を「ふ」と書き損じて修正した跡が残るなど、座の様子がうかがわれる。


 ◇清水家住宅は登録文化財に
 文化審議会は1888(明治21)年に建てられた和風建築「清水家住宅」(金沢市中央通町)を登録有形文化財とするよう答申した。対象は主屋、表門・塀の2件。主屋は木造2階建て。切妻造りの正面に梁などを縦横に組み、右手に出格子を備える。武家屋敷風の「腕木門」と呼ばれる意匠の表門など、金沢城下の伝統的民家の趣を伝え、落ち着いた景観を醸している。県内の同文化財は86カ所189件となる。 (3月23日毎日新聞)



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旧モーガン邸、旧住友家も…神奈川で焼失相次ぐ歴史的建物

神奈川県内では、15日に国の重要文化財「旧住友家俣野別邸」(横浜市戸塚区)が全焼している。

 また、昭和初期の洋館「旧モーガン邸」(藤沢市)でも2007年5月と08年1月、本棟と別棟をそれぞれ全焼する火災があった。旧住友家の出火原因は分かっておらず、旧モーガン邸については県警が放火とみて捜査している。

 旧吉田邸は6時間半にわたって燃え続け、建物は黒々と焼け落ち、跡形もなくなった。駆け付けた神奈川県の松沢成文知事は、「文化的資産が全焼してしまい残念。今後のことは地元や国、西武鉄道と相談しながら決めていきたい」と肩を落とした。大磯町の三好正則町長は「非常にショックを受けている。できることなら、再建したい」と話した。 (3月23日読売新聞)


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陣屋遺跡:中世の墓群を発見、火葬石室墓も 有力者の墓所か

 添田町教委は、同町中元寺の陣屋遺跡で奈良〜鎌倉期の墓群を見つけたと発表した。棺型に石組みした鎌倉期の「火葬石室墓」もあり、中世有力者の墓所と推定されるという。町教委は「火葬の風習が地方に伝播(でんぱ)し、有力者層に定着した過程を推測できる貴重な手がかり」と評価している。

 ほ場整備に伴い昨年10月から遺跡約4800平方メートルを調査した。火葬石室墓は縦1・9メートル、横1・3メートル、深さ約40センチ。墓内の炭化物の年代測定から1290年ごろの遺構とみられる。内部の石には赤く焼けた跡が残り、木棺を置いて焼いたらしい。遺骨は見つかっていないが、墓内は大小の石で塞(ふさ)がれ、官人や高僧ら有力者の葬儀に使われたと推測されるという。

 遺跡からはほかに、国内最初の火葬から約100年後とみられる奈良時代(790年ごろ)の火葬灰集積層や平安・鎌倉期の火葬穴が見つかった。また、約3000年前の縄文後期の住居跡や室町期の炭窯跡なども発見された。土葬も含め、墓は計14基見つかった。

 遺跡は4月、ほ場整備事業によって消滅する。町教委は22日午後1時半から学芸員による現地説明会を開く。 (3月22日毎日新聞)




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造山古墳、前方部の西端と後円部の北東端を調査 岡山

 岡山大学の新納泉教授(考古学)らの研究チームが初の発掘調査を進めている国指定史跡の造山(つくりやま)古墳(岡山市新庄下)で21日、一般を対象にした現地説明会が開かれ、大勢のファンが古代ロマンに思いをはせた。

 同古墳は、5世紀前半の前方後円墳で全国4位の規模を誇る。その規模から被葬者について大和の大王に匹敵する古代、吉備の国の王ではないかとされ、3年計画で進められる“謎の古墳”の解明に期待が高まっている。

 研究チームは平成17年度から3年間かけてGPS(衛星利用測位システム)などを使ったデジタル測量で細かく古墳の形状や面積などを特定した。調査は、畿内の大王墓に匹敵する証となる周濠(しゅうごう)の有無を確認し、吉備の国の最高首長の解明の手がかりを得るのが目的。

 今回の第1次では、前方部の西端と後円部の北東端を詳しく調査し、墳丘全長の確認や築造年代を確定する遺物発掘など行う。これまでに円筒埴輪(はにわ)や蓋(きぬがさ)形埴輪などの破片計約450点の遺物や中世までの土器片約60点などが出土している。

 新納教授は「5世紀の前半から中ごろにかけて畿内(中央政界)で巨大古墳が築造された時代。周濠の有無の確認を進める一方で、現場の地形の状況から古墳の基礎の施工法など周辺部の構造を推測するための重要な手がかりも得られてきている」と話している。

 現地説明会では、岡山県内外から約400人が訪れ、新納教授の説明に熱心にメモを取り、写真、ビデオ撮影などをしていた。 (3月22日産経新聞)






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鈴鹿の昔を出土品で紹介 考古博物館に11遺跡のつぼや瓦など

 鈴鹿市国分町の市考古博物館で20日、市内で昨年発掘された出土品を紹介する企画展「発掘された鈴鹿2008」が始まった。6月28日まで。

 開発や学術調査により発掘作業が行われた岸岡山、萱町、富士など計11遺跡から出土した、つぼや瓦、茶わん、小刀など約200点を展示。写真で分かりやすく説明している。

 八重垣神社遺跡(十宮町)からは、「沈線文系」と呼ばれる弥生時代のつぼ型土器が出土。北陸地方に多く分布し、当時から交流のあったことが推定できる。破片が復元され、来館者が興味深そうに眺めている。伊勢国分寺跡遺跡(国分町)では瓦が多数出土。「中」「守」などの文字が読み取れる。

 入館料は200円(小中学生100円)。今月29日午後2時から中森成行館長が講話。期間中に担当者によるスライド説明会もある。いずれも無料。 (3月23日中日新聞)

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2500人、卑弥呼に思いはせ…奈良・纒向遺跡で説明会

 邪馬台国の有力候補地で、女王・卑弥呼の時代の3世紀前半〜中頃に計画的に整備された建物跡が確認された奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で22日、現地説明会が開かれた。

 約2500人が、中枢施設の一角だった可能性もある遺構に見入った。

 同市教委の橋本輝彦主任が1978年に出土した建物跡や新たに見つかった柱穴を示し、少なくとも3棟が向きをそろえていたことなど、発掘の成果を紹介。「当時の先進技術や思想を反映した特別な場所と想定できる」などと説明した。

 参加者はメモを取ったり遺構を撮影したりしながら熱心に見学、横浜市から家族で訪れた西和道さん(15)は「卑弥呼のために職人を集め、計画を練ってつくり上げたのかな」と想像を巡らせていた。 (3月23日読売新聞)



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2009年03月20日

卑弥呼宮殿の一角か 纒向遺跡で柵など出土

 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の建物跡(柱穴)や凸字形の柵(さく)が見つかり、市教育委員会が20日発表した。

 過去に見つかった建物跡とあわせ、3棟が東西に整然と並ぶことも確認。当時、方位に合わせて計画的に建てられた例は極めて珍しい。

 女王・卑弥呼が活躍した時期とほぼ一致しており、卑弥呼がまつりごとを行った宮殿の一角との見方が浮上、邪馬台国畿内説に弾みをつけそうだ。

 調査は、約100メートル四方の高台のうち、西端約400平方メートルで実施。新たな建物跡は一辺が6メートル以上あり、昭和53年に見つかった建物跡(一辺5メートル)の東側で見つかった。その西側で以前、見つかっていた柱穴は同様の建物跡と分かった。

 3棟が高台の西端に位置することから、さらに東へ発掘を進めれば、神殿のような中心的な建物が見つかる可能性がある。

 柵は、全体の長さが約40メートル。53年発見の建物跡を凸字で囲むように南北へ伸び、東に折れ曲がっている。

 3棟は、西端の一棟がある「外郭(がいかく)」と、凸字形の柵に囲まれた2棟がある「内郭(ないかく)」に分かれた宮殿構造だった可能性もある。市教委は「建物群が特別な施設であることは間違いない」としている。 (3月20日産経新聞)





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2009年03月16日

縄文の大豆痕跡5点発見 山梨

 山梨県立博物館などの研究チームが、約5000年前の縄文土器から栽培したとみられる大豆の痕跡5点を発見したことを明らかにした。今回の発見について、同館の中山誠二学芸課長は「縄文時代に大豆を栽培していたことがほぼ確実になった」としている。

 研究チームは土器に残る痕跡にシリコンを流して型を取り、顕微鏡を使って調査。一昨年、大豆痕跡が見つかった縄文時代中期の酒呑場(さけのみば)遺跡(北杜市)に加え、同時代の女夫石(めおといし)遺跡(韮崎市)で出土していた土器も調べた。土器の表面と内部から、野生の大豆に比べて形が大きい5点を発見、うち4点は前回同様の扁平(へんぺい)形という。 (3月16日産経新聞)



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2009年03月09日

「縄文期は笠原で初」 多治見の砂田・総作遺跡

 多治見市笠原町の「砂田・総作遺跡」の第1次発掘調査現地説明会が7日あった。市文化財保護センターの担当者らが遺跡の概要を説明し、約40人が聴き入った。

 土器や打製石器、中国の青磁の出土状況から縄文期−古墳時代のものとされ、担当者は「市内には縄文期の遺跡がこれまで3カ所しか見つかっておらず、笠原町では初めて」などと歴史的価値を解説した。

 同遺跡は笠原川から1区画挟んだ西に位置し、2007年10月、市道の拡幅工事に伴う試掘で見つかった。

 南北120メートル、東西600メートルにわたって続き、今回はその一部を発掘。これまで陶磁器の破片が8000点ほど出土している。まだ集落跡は見つかっていないが、4月以降の2次発掘で確認される可能性があるという。 (3月8日中日新聞)





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