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2012年10月04日

貴重な絹織物「経錦」を確認

 1983年に筑波大学が発掘調査を行った茨城県土浦市上坂田の武者塚古墳の出土品の中から布片が見つかり、鑑定調査の結果、古墳時代末期(7世紀)の高級絹織物である「経錦(たてにしき)」であることが確認された。

 土浦市上高津貝塚ふるさと歴史の広場考古資料館によると、経錦が見つかったのは、茨城県ではかすみがうら市の風返稲荷山古墳に次いで2例目だという。

 経錦は、複数の色糸を縦糸に使う織物で、製作が非常に難しいことから、8世紀半ばからは姿を消した。今回確認されたのは、5ミリから2センチ程度の18片。4年前に筑波大から出土品の返還を受けた同資料館が最近になって整理を進める中で発見。今年3月に受けた鑑定で経錦であることが判明した。

 同資料館の茂木雅博館長は「発掘時には大きな1枚の布だったはず。慎重に調査をしていればという残念な思いもあるが、経錦と確認できたのはよかった。しっかり調べれば、(全国の古墳で)もっと見つかるのではないか」と話している。時事通信 10月4日

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屋敷裏遺跡の住居跡から豪華な壺 なぜ古墳の副葬品が…

 羽生市名の利根川沿いに位置する屋敷裏遺跡で、古墳時代後期の住居跡から須恵器の壺が出土した。豪華な装飾の施されたトロフィーのような壺は、豪族が眠る古墳の副葬品として作られたもので、住居跡から発見されるのは稀。県内では類例がないという。しかも壺部分と台部分は別々の住居跡で見つかっており、謎は深まるばかり。誰が、どんな目的で所有していたのか。古代のミステリーに迫った。

■ステータス

 屋敷裏遺跡は縄文時代から平安時代に至る複合遺跡。利根川の堤防強化工事に先立ち、県埋蔵文化財調査事業団が昨年4月から今年3月にかけて発掘調査を実施したところ、古墳時代65軒を含む94軒の住居跡が発見された。

 トロフィー形の壺は6世紀後半の「脚付長頚壺(きゃくつきちょうけいつぼ)」で、高さ約40センチ。壺部分に「カキ目」と呼ばれる横線が、台部分には円形や四角の透かし穴が施されている優品だ。土の質感から、産地は群馬県太田市の金山窯が有力視されている。

 古墳時代はまだ須恵器を作る窯が少なく、庶民は須恵器をまねた土師器を使用していた。須恵器の所有は豪族としてのステータスを示すが、同事業団は「これだけ立派な壺は、ある程度の力がないと持てない。なぜ集落の家にあったのか」と首をひねる。

■お蔵入り?

 壺部分と台部分が別々の住居跡から出土している点も興味深い。自然災害で本来の場所から移動した可能性について、同事業団は「20メートルほど離れた場所にあり、川の氾濫などで流されてきたとは考えにくい」と否定。容器としての転用も「壺部分は使えるかもしれないが、台部分は難しい」という。

 日用品ではない根拠は、須恵器の持っていた価値からも説明できる。現代で例えるなら「舶来の高級品」で、庶民の手には渡らない代物。にもかかわらず、一帯の住居跡からは高杯(たかつき)や背の低い脚付短頚(たんけい)壺、丸底壺といった数点の須恵器も見つかっている。

 そこで浮上するのが、副葬品の調達を担う人物が住んでいたという推測。「豪族に納めるはずの副葬品が何らかの原因で破損したので、隠しておいたのではないか」と同事業団。ほかの須恵器は脚付長頚壺に比べてやや見劣りし、「お蔵入り」になったとの見方も。ただ、これも確固とした裏付けはない。

■永明寺古墳

 豪族の墓に捧げられるべき貴重な壺が、なぜ庶民の家にあったのか。謎を解く鍵として注目されているのが、屋敷裏遺跡から西に約1キロ離れた村君古墳群にある「永明寺(ようめいじ)古墳」だ。

 市内最大、全長78メートルの前方後円墳からは鎧(よろい)の一部である鉄製の「挂甲小札(けいこうこざね)」などが見つかっており、有力な豪族がいた可能性が高い。古墳時代中期の築造と脚付長頚壺とは年代が前後するものの、同事業団は「何世代にもわたって古墳が使われる中で、壺が関わっているのではないか」とみて、屋敷裏遺跡出土品の整理作業を進める。
埼玉新聞 10月4日
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聚楽第の本丸石垣発見

 豊臣秀吉が造営し、1587年に完成した城郭風の邸宅「聚楽第(じゅらくだい)」本丸南堀の石垣の一部が、京都市上京区須浜町で見つかった。京都府埋蔵文化財調査研究センターが4日発表した。聚楽第の発掘調査では、北の丸の堀で石垣の一部が見つかっているが、本格的な石垣が確認されたのは初めて。

 同センターによると、発掘された石垣は花こう岩が2段に積まれており、高さは約80センチ。一つの石の高さと幅は40〜50センチで、全部で6列確認された。

 本丸は東西200メートル、南北に330メートルあったと推定され、見つかった石垣は深さ7メートルの堀の底に近い部分とみられる。周辺では金箔(きんぱく)が施された瓦片3個も見つかった。

 秀吉は、おいの秀次に関白職とともに聚楽第を譲ったが、嫡男の秀頼が誕生すると秀次を切腹に追い込んだ。聚楽第も完全に破壊され、遺構はほとんど見つかっていなかった。時事通信 10月4日
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