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2009年04月09日

正光寺山古墳群:副葬品の須恵器で特定、6世紀半ば築造 予想より数十年早く /愛媛

 新居浜市教委は8日、同市坂井町2の正光寺山古墳群が6世紀半ばに築造された可能性が高い、との発掘調査内容を中間報告した。これまでは6世紀後半の築造と予想されていたが、数十年さかのぼることになる。

 同古墳群は1951年に愛媛大の松岡文一教授(当時)らが1、2号墳を調査。主に石室内を調査し、副葬品の須恵器から築造年代を6世紀後半と予想。規模は直径約15メートルの円墳2基と推定していた。

 今回の調査は市の土地区画整理事業に伴うもので今年1月から実施。6世紀半ばの特徴を持つ須恵器が、1、2号墳からそれぞれ見つかり、築造年代を特定した。

 調査が途中のため、古墳の規模は、確定していないが、1、2号墳共に、前回の調査より、1〜2メートル大きくなるという。被葬者は当時の新居浜平野を治めていた首長とみられる。古墳群は調査終了後、古墳を生かした公園として、来年度中に整備される。 (4月9日毎日新聞)






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2009年03月23日

鈴鹿の昔を出土品で紹介 考古博物館に11遺跡のつぼや瓦など

 鈴鹿市国分町の市考古博物館で20日、市内で昨年発掘された出土品を紹介する企画展「発掘された鈴鹿2008」が始まった。6月28日まで。

 開発や学術調査により発掘作業が行われた岸岡山、萱町、富士など計11遺跡から出土した、つぼや瓦、茶わん、小刀など約200点を展示。写真で分かりやすく説明している。

 八重垣神社遺跡(十宮町)からは、「沈線文系」と呼ばれる弥生時代のつぼ型土器が出土。北陸地方に多く分布し、当時から交流のあったことが推定できる。破片が復元され、来館者が興味深そうに眺めている。伊勢国分寺跡遺跡(国分町)では瓦が多数出土。「中」「守」などの文字が読み取れる。

 入館料は200円(小中学生100円)。今月29日午後2時から中森成行館長が講話。期間中に担当者によるスライド説明会もある。いずれも無料。 (3月23日中日新聞)

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2009年01月05日

篤姫:福川宿泊を証明 周南市教委、14日から古文書公開

 昨年のNHK大河ドラマで主人公となった天璋院(てんしょういん)篤姫が輿(こし)入れで薩摩から江戸へ向かう途中、山陽道の福川宿(現在の周南市)に泊まったことを伝える古文書が確認された。これを受け、同市教委は14日から古文書を展示する。

 同市古市の丹野吾朗さん(83)ら市内の郷土史家が地元に残る「岩崎家文書」から探し出した。嘉永6年9月5日付で当時の徳山藩の役人が出した指示書に「薩摩中将様御娘御参府として、来る九日 宮市(防府市)御昼休、同晩福川町御泊……」と、町の人に人馬や物品の提供を求める記述がある。

 丹野さんは岩国徴古館(ちょうこかん)に残る「岩邑年代記」と照らし、福川宿から玖波(くば)宿(広島県大竹市)まで2日間で移動したことも確認。「篤姫は大名行列が泊まる宿を抜かし、急ぎ足で江戸へ向かっていたようだ」と話している。 (1月5日毎日新聞)




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熊本城 「一口城主」が好評 寄付金 4日間で1200万円超す

 熊本城の復元資金を募るため、熊本市が元日から受け付けを開始した、一口1万円で熊本城の城主を募る「一口城主」制度の寄付金額が4日、早くも1000万円の大台を超え、約1240万円に達した。中には一度に10万円を寄付した“城主”もおり、目標の7億円に向けて幸先良いスタートを切った。

 熊本城総合事務所によると4日までの応募は計1098口。本丸御殿前に設けられた特設テントには、熊本城の見学を終えた人などが次々と訪れ、手続きを済ませた。世の中は不況ムードが漂うだけに、同事務所も「4日間、天候に恵まれたこともあるが、これほどの好評をいただくとは…」と驚いた様子。

 「城主」になると城主証や、最大10年間無料で入城できるパスポートが贈られるほか、名前と住所を書いた芳名板も天守閣に掲示。集まった寄付金は熊本城の「第2期復元整備計画」(総事業費23億円)で予定する馬具櫓(やぐら)の復元事業費などに充てられる。

 受付は2017年度までの10年間。5日以降は熊本城頬当(ほおあて)御門や市役所で受け付けるほか、申込書の郵送も行う。 (1月5日西日本新聞)


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氷:国内最古、大雪山・然別火山群から発見

 大雪山国立公園の南東に位置する然別火山群から発見された氷が、国内最古の3700〜4000年前のものだったことが独立行政法人産業技術総合研究所(茨城県つくば市)の沢田結基研究員(33)の調査で分かった。氷を構成する酸素や水素を解析し、地下水ではなく雨や雪など「降水」でできたと結論。沢田研究員は「当時の気候を知る手がかりが得られるかもしれない」と話している。

 沢田研究員は北海道大低温科学研究所の研究員だった05年、然別火山群の標高1000メートル付近の斜面で永久凍土を棒状に発掘。その際、地表から約2・5メートルの地点で氷を発見した。中に含まれていた植物の葉の年代を調べた結果、3700〜4000年前のものと判明。氷も同時代にできたと推定した。

 これまでに見つかった国内最古の氷は、富山県・立山(3015メートル)の雪渓にあった約1700年前のものだった。沢田研究員は08年6月、米国で開かれた国際永久凍土学会で研究結果を報告した。 (1月5日毎日新聞)
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2008年12月01日

民家の庭から「お宝」ざくざく=古代ローマ貨幣が3万枚−仏

フランスのパリ南方約30キロのエソンヌ県にある民家の庭で11月初め、3世紀に鋳造されたとみられる古代ローマの貨幣3万〜4万枚が地中から発見されたことが分かった。銀をわずかに含む銅貨で、総重量80〜100キロ。AFP通信は「フランスで見つかった宝物の量としては最大級」と報じた。

 貨幣は2個のつぼに分けて地下40センチに埋められ、庭の傾斜をならす作業中に見つかった。表面にガリエヌス帝(在位253〜268年)などの肖像が刻まれ、280〜283年ごろ埋蔵されたらしい。ローマ帝国が混乱し侵略が増えた時期で、安全確保の資金だった可能性があるという。
 貨幣の推定評価額は数万ユーロ(数百万円)。2カ月前に家を買ったばかりの家主と、発見者の作業員が利益を折半する見通しという。 (12月1日時事通信)



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2008年11月27日

<陵墓参考地>堺市の「御廟山古墳」、初の一般公開へ

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 堺市北区の陵墓参考地「御廟山(ごびょうやま)古墳」が29、30の両日、現地で一般公開されることになった。宮内庁が管理する陵墓はこれまで研究者に限り公開が認められており、一般に公開されるのは初めて。

 同古墳は、大山古墳(仁徳陵)など百舌鳥(もず)古墳群の一つで、応神天皇の初葬地の可能性があるとして宮内庁が陵墓参考地に指定。墳丘は宮内庁、周濠(しゅうごう)は地元自治会が管理しており、墳丘の護岸整備に向けて同庁が10月から事前調査に入ったのに合わせ、堺市が濠を調べていた。

 調査の結果、古墳の全長が従来より約14メートル大きい約200メートルになることが判明。出土品から築造年代は従来の5世紀後半から中ごろにさかのぼり、墳丘のテラス部から円筒や朝顔形の埴輪(はにわ)列が確認された。

 宮内庁は「御霊(みたま)の安寧と静謐(せいひつ)を守る」として、陵墓の公開を研究者に対する補修時の発掘調査見学に限定してきた。今回は堺市主催で、墳丘には立ち入れないが、仮設通路から発掘現場が見学できる。

 公開は両日とも午前9時〜午後4時。希望者は、同市堺区の大仙公園内の催し広場に集合。1日5000人まで整理券を配布。 (11月27日毎日新聞)


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2008年11月25日

小田原城跡:復元整備、松・桜・梅伐採へ 根が遺構破壊の恐れ /神奈川

 国指定史跡「小田原城跡」で復元整備が進む「馬出門桝形(うまだしもんますがた)」周辺の松、桜、梅計11本について、小田原市は来年3月末の完工までに伐採することを決めた。根が地下の遺構を破壊する恐れがあるため。お堀端は桜の名所としても知られているが「遺構保護のためやむを得ない」と市は説明している。

 伐採するのは、旧小田原署前のお堀端通りから土橋を渡った枡形の中などにある松8本、桜2本、梅1本。市文化財課によると、枡形の中は家の玄関に当たり、江戸時代には木々はなかった。関東大震災以後に植えられたり、自生で育ったものだという。

 これらの木々の根が遺構を破壊したり、土塀や石垣の基礎を破損したりする恐れが、復元整備の過程で分かった。実際に、排水施設の石組水路など江戸時代の貴重な地下遺構が傷んでいるという。同課は「残せるものは残したいと考え、ぎりぎりまで残す検討をしてきた。しかし土塀にひびが入るなど遺構保護の観点から無理だと判断した」と説明している。

 桝形は、二の丸を守る重要な門だった「馬出門」「内冠木(うちかぶき)門」と石垣、土塀の総称。馬出門は明治に入って天守閣などとともに解体され、関東大震災で石垣がほぼ全壊した。震災後の復旧事業で、天守閣(60年)と常盤木門(71年)に続き、97年には本丸に通じる「銅(あかがね)門」が復元された。馬出門が来春公開されると、江戸時代の天守閣までの登城ルートがほぼ「復活」する。

 小田原城は中世最大規模の城郭として発展、江戸時代以降は天守閣や石垣、水堀などのある関東では数少ない近世城郭として知られている。
(11月25日毎日新聞)




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飛鳥寺跡 7世紀の石敷き道路見つかる 中枢結ぶ交差点か

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 大豪族・蘇我馬子(そがのうまこ)(?〜626年)が建立した国内初の寺院、飛鳥寺跡(奈良県明日香村、596年完成)で、7世紀のものとみられる石敷きの道路、階段状の石組み溝が見つかった。調査した奈良文化財研究所によると、日本書紀が大化の改新(645年)の中心人物、中臣鎌足と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=天智天皇)が出会ったと伝える「槻木(つきのき)の広場」や、同寺、飛鳥京など飛鳥の中枢施設を結ぶ交差点の一部の可能性があるという。

 現在の本堂(当時の中金堂跡)から約140メートル南東の水田を調査した。石敷きの道路は、北と東のへりにそれぞれ縁石(約70センチ大の花こう岩)が長さ4メートル、2メートルにわたり施されていたことから北東角と判明。また、石敷き道路の東隣では、50〜70センチ大の花こう岩で築いた石組み溝を南北4メートル分確認。西側が2段、東側が3段積みの階段状で、東西幅は0.7〜2.6メートル、深さは20〜80センチあった。

 道路は飛鳥寺と飛鳥京の間に位置し、今回の調査地から西へ約30メートル付近では過去にも石敷き道路が見つかっている。また、飛鳥寺と飛鳥京の東には、現在も南北に丘陵が連なる。今回は、丘陵沿いに想定される南北道路(過去の調査で一部確認)は見つからなかったが、石組み溝をその西側溝と考えると、橋などの構造物を介し、東西を走る石敷き道路と南北道路は丁字状に交わる交差点が想定できるという。 (11月25日毎日新聞)

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2008年11月10日

<塩津港遺跡>平安時代後期の木彫り神像5体出土 滋賀

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 琵琶湖北部の塩津港遺跡(滋賀県西浅井町)を調査していた県教委は10日、平安時代後期に作られたとみられる木彫りの神像5体が出土したと発表した。「神仏習合や信仰の実態を示す貴重な資料」としている。

 神像は高さ10.5〜15.2センチで、神社本殿北側の堀(深さ約60センチ)などから出土。2体は男神、3体は女神を表し、うち2体は一対らしい。遺跡からの出土は島根県出雲市の青木遺跡(奈良時代後半〜平安時代前半)に続き2例目で、5体の出土は初めて。1185年の地震による琵琶湖の津波で、神殿ごと流されたとみられる。

 神像は6世紀に伝わった仏教の影響で仏像のように神様を像にしたもの。遺跡では他に仏堂の柱などにかける装飾具の一部なども出土。滋賀県立大の林博通教授(考古学)は「神仏習合した古代神社の祭祀(さいし)の様子を示す発見」と話している。 (11月10日毎日新聞)



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2008年10月29日

弥生土器2点盗難 壺と甕、発掘現場で 考古学に詳しい人物か

 北九州市芸術文化振興財団は29日、同市小倉南区城野3の重留遺跡で出土した弥生時代後期(2〜3世紀)の土器2点が盗まれたと発表した。福岡県警小倉南署が窃盗容疑で捜査している。

 同財団によると、28日午前8時35分ごろ、出勤してきた職員が、地表から約2・1メートル掘り下げた発掘現場に、出土状態のまま保存してあった壺(つぼ)と甕(かめ)各1点がなくなっているのを発見した。壺は高さ20〜30センチ、甕は高さ30センチ。いずれもほぼ完全な形だった。

 同財団は9月22日に発掘を始め、現場をさくと針金、ロープで囲っていた。土器は10月23日に一部が出土。埋まった状態のまま実測などを進め、27日には翌日に予定していた現場撮影に備えて全体を掘り出したという。

 作業現場は27日午後5時ごろから無人だった。

 同財団埋蔵文化財調査室は「考古学に詳しい人物が持ち去った可能性がある」と話している。

 重留遺跡は竪穴住居跡と貯蔵穴からなる弥生時代中後期の集落跡。これまでに銅矛(福岡県有形文化財に指定)などが出土している。(10月29日毎日新聞)




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源氏物語 最古の「梅枝巻」写本 勝海舟の蔵書印も

 甲南女子大(神戸市)は29日、所蔵する源氏物語54帖(じょう)の一つ「梅枝巻(うめがえのまき)」の「別本」系統の写本が、鎌倉時代中期のものと確認されたと発表した。梅枝巻としては、東京国立博物館所蔵の写本と同時期で、現存するものでは最古。他の写本にはない表現があり、紫式部が書いた原作を知る手がかりになる可能性もあるという。

 1973年に古書店から購入したもので、縦15.4センチ、横15.6センチ。「斐紙(ひし)」と呼ばれる紙に書かれ、文字を記した「墨付」は65ページあった。米田明美教授(日本文学)が「源氏物語千年紀」を記念した書展を開くため、書庫で保管されていた梅枝巻を確認。田中登・関西大教授(同)に鑑定を依頼し、書体や紙質などから、鎌倉中期の1240〜80年ごろの写本と確認した。

 梅枝巻には、娘の「明石の姫君」の結婚に際し、光源氏が嫁入り道具を準備する場面などが描かれている。今回の写本では、光源氏が妻の「紫の上」の書のうまさを褒める場面で、従来の写本にはない「いたうなすかし給そ(ご冗談おっしゃいますな)」と、紫の上が照れながら光源氏に話す表現があった。

 また、これまでの写本で「かむなはしとけなきもしこそまじるめれ(上手な漢字の中に大きさが不均一な仮名が交ざった方がいい)」との記述の「まじるめれ」の部分は、「まさるめれ」と記されていた。従来は光源氏が書の一般論として話していたとされるが、今回の写本では、紫の上の書を褒める内容に解釈できるという。

 一方、本文の前ページには、楕円(だえん)形で縦3センチ、横1.9センチの「勝安芳(やすよし)」と記された蔵書印が押されていた。米田教授によると、明治維新の立役者・勝海舟が維新後に名乗った蔵書印と同一という。

 写本は11月4〜7日と10日、甲南女子大の大学図書館で一般公開される。 (10月29日毎日新聞)







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2008年10月26日

“闊達”諭吉20代後半 渡欧中の写真、オランダで発見

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 福沢諭吉(1835〜1901年)が文久2(1862)年、文久遣欧使節の通訳として渡欧した際に撮影された写真4枚がこの夏、オランダのユトレヒトで発見された。渡欧中の肖像写真はこれまでに十数枚が確認されているが、慶応義塾福沢研究センターの都倉武之さんは「諭吉の自由闊達(かったつ)な気風がとらえられた、とても興味深い写真」と話す。

 竹内下野守保徳を正使とした使節は文久2年1月に長崎をたち、フランス、英国、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルをめぐり、約1年後に帰朝。使節はこの旅でユトレヒトの造幣局を訪問している。

 4枚の写真は東京大学史料編纂(へんさん)所の谷昭佳さんが、ユトレヒトの貨幣博物館が所蔵する文久遣欧使節の写真31枚を収めた記念アルバムの中に発見した。1枚は諭吉を含む使節4人の大判集合写真(20・3センチ×15・2センチ)、3枚は単独の名刺判写真(10・5センチ×6・3センチ)。

 大判写真の裏にはユトレヒトで活動していたドイツ系写真家「F・KAYSER(カイザー)」のスタンプがあり、使節がユトレヒトを訪問した7月15日から17日の間に撮影された可能性が高い。単独写真3枚も諭吉が同じ着物であることから同日撮影とみられる。

 「史料によると、一行がユトレヒトに到着した7月15日の夜にティボリ公園で歓迎会が催されています。推測ですが写真は歓迎会の前に撮影されたのでは。1カ月に及ぶオランダ滞在が終了した安堵(あんど)感が感じられるようです」と谷さん。

 諭吉が64歳のときに口述筆記させた『福翁自伝』で「各国巡回中待遇の最もこまやかなるはオランダの右に出るものがない」と回想しているように、4枚の写真からは歓待を受けてリラックスしている諭吉の様子がうかがえる。 (10月26日産経新聞)




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小野城跡で道路跡4カ所発見 三重県埋蔵文化財センター

 県埋蔵文化財センターは、亀山市小野町の小野城跡で、鎌倉時代から戦国時代にかけての道路跡が4カ所見つかったと発表した。約2キロ先には、室町時代から戦国時代に鈴鹿郡を支配した関氏の別荘「正法寺(しょうほうじ)山荘」(国史跡)があり、それに向かう道路だった可能性もあるという。26日午前10時半から、現地説明会が行われる。

 同城の城主は、鎌倉時代の三日平氏(みっかへいし)の乱の首謀者の若菜五郎か、関氏の家来の小野氏と伝えられる。

 発見された道路跡は最大で幅3メートル、長さ170メートル。底に部分的に砂利が敷かれたところ、ふぞろいの穴が連続する「波板状凹凸面」も確認された。

 また、道路跡の南側で多くの柱穴や、鎌倉時代から戦国時代の土器も見つかり、道路に沿って建物が造られていたと考えられる。このほか、築城以前の竪穴住居跡も確認された。

 現地は国道1号関バイパス建設予定地で、昨年度から約4800平方メートルを事前調査として発掘した。 (10月26日産経新聞)


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2008年10月19日

明日香・石神遺跡で最古の万葉歌木簡

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 飛鳥時代の役所跡とされる奈良県明日香村の石神(いしがみ)遺跡で発見された7世紀後半の木簡に、万葉集に収められた和歌が刻まれていたことが17日、森岡隆・筑波大学大学院准教授(日本書道史)の調査で分かった。万葉歌の木簡は、滋賀県甲賀市の紫香楽(しがらきの)宮(742〜745年)跡で見つかっているが、半世紀以上さかのぼる国内最古の例となった。8世紀後半に編纂された万葉集の1首を、飛鳥時代の宮廷人が詠んでいたことが裏付けられ、万葉集のルーツを考える上で貴重な資料になりそうだ。

 木簡(長さ9センチ)は、平成15年度の奈良文化財研究所の発掘で見つかり、万葉仮名で「留之良奈●麻久(るしらなにまく)」「阿佐奈伎尓伎也(あさなきにきや)」と、7文字ずつ2列にわたって刃物で刻まれていた。

 万葉集巻7には、「朝なぎに来寄る白波見まく欲り我はすれども風こそ寄せね」(朝なぎに寄せる白波を見たいと思うが、風が吹いてくれない)という作者不詳の和歌が収められている。

 森岡准教授は木簡の文字列を通常と反対の左の行から読めば、「あさなきにきやるしらなにまく」と、万葉歌の上の句とほぼ一致することを発見した。

 同研究所などは当初、右の行から読み、万葉集の歌の句とは気づかなかった。森岡准教授は「左から読む例は過去にもあり、矛盾はない。木簡には誤字や脱字があるが、役人が都のヒットソングを覚えていて、手すさびに記したのかもしれない」と話している。

 万葉集は現存する最古の歌集で、大伴家持が編纂したともいわれ、天皇の恋歌や庶民の歌など約4500首が収録されている。 (10月18日産経新聞)


〜この木簡を当時の方々が手にして詠んでいたことを考えると大変貴重な発見だと思います。
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火葬場跡 8600年前の世界最古、シリアで発見

 シリア北西部にある新石器時代の集落遺跡「テル・エル・ケルク遺跡」の発掘調査をしている筑波大調査団(団長・常木晃筑波大大学院教授)が、約8600年前の火葬場跡を発見した。2万年以上前の火葬された人骨は発見されているが、火葬に使った土坑や焼けた人骨が同時に発見された明らかな火葬場としては世界最古とみられ、来年3月の西アジア考古学会で発表する予定だ。

 常木教授によると、今年8月、昨年発掘した世界最古級の約8500年前の墓地をさらに掘ったところ、南北10メートル、東西6メートルの敷地に直径約1メートル、深さ50〜80センチの四つの土坑と47体の人骨が見つかり、そのうち20体程度が火葬されていた。

 発掘が済んだ三つのうち二つは5体程度の人骨が火葬され埋葬されていた。残り一つの土坑に人骨はなかったが、土の壁が焼けて硬くなり、近くに火葬された人骨があった。放射性炭素による年代測定で火葬場跡を含む地層は約8600年前と分かった。

 これまで、オーストラリアのウィランドラ湖水地方で約2万6000年前の焼けた女性の人骨が見つかるなど焼けた人骨だけが見つかったケースはあるが、明らかな火葬場としてはイラク北部などの約7000年前が最古で、それより1600年程度古い。

 常木教授は「火葬には約1トンの木材が必要で、火葬した人と、していない人がいるのは、何らかのステータスがある人を火葬にしたのではないか」と推測する。東京大学考古学研究室の佐藤宏之教授(先史考古学)は「新石器時代初期は階層が生まれ始め、エリートが出てきたころ。これだけ古い時代の火葬場跡は知らず、非常に重要な遺跡だ」と話した。 (10月18日毎日新聞)


〜こんな昔から火葬の風習があったんですね。何かしらの儀式のようなものだったのでしょうか…

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2008年10月07日

秋田の公文書館で「武士の日記」展−愚痴や欠陥住宅への不満も

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 企画展「武士の日記を読む」が10月24日から、秋田県公文書館で開催される。

 開幕から明治維新までの9人の藩士の日記を中心に、「武士の公務を読む」「武士の日常を読む」「幕末の秋田を読む」の3部構成の同展は、、錦絵や屋敷図などと合わせ資料41点を展示する。「江戸時代に藩士によって記された日記は、職務の参考や後任の担当者への引き継ぎなど、公的な目的をもつものが多いが、日常の生活を書き残したものもあり、当時の武士の様子を知る貴重な資料」(同館学芸主事・畑中さん)だという。

 展示する日記は、出版化されたこともある初代秋田藩主・佐竹義宣(さたけよしのぶ)側近が記した県指定有形文化財の「梅津政景(うめづかげまさ)日記」や、1701年の赤穂事件をリアルタイムで記し、吉良義央(きらよしひさ)の評判について触れてた「岡本元朝(おかもとげんちょう)日記」のほか、武士が「日々の愚痴や欠陥住宅への不満、米不足の時に自分の酒を絶やさないように命令したことなどが書かれている日記もある」(同)。

 畑中さんは「武士道は武士が理想を掲げたもので、ともすれば彼らの生き方を定型的にとらえがちだが、これらの日記からは、本当のサムライにはもっと人間味があったことがわかる」とし、「江戸時代の雪国秋田の藩士が何を考え、どう暮らしていたのかを知る貴重な機会なので、多くの人に見に来てもらえれば」と話す。 (10月7日秋田経済新聞)



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弥生人はグルメだった? 鈴鹿市で県内からの出土品展示

県内各地から出土した弥生時代の遺物200点近くを集めた展示「弥生人のスローライフ−おコメ生活はじめました」が4日、鈴鹿市国分町の市考古博物館で始まった。12月7日まで。

 上箕田(みだ)遺跡(同市)や納所(のうそ)遺跡(津市)など県内の代表的な弥生時代遺構からの出土物を衣食住に分類して並べた。

 「食べる」のコーナーでは、ご飯を炊く様子を再現し、お焦げが残った土器も展示した。

 桑名市の宇賀遺跡から出土したモモやクルミの種、伊勢湾口沿いの鳥羽市の白浜遺跡から見つかったアワビやサザエの殻もあり「弥生人はグルメだった」と同博物館。

 津市や鈴鹿市で発見された銅鐸(どうたく)は「祈る」、ガラス玉や勾玉(まがたま)などを「装う」のコーナーに並べ、弥生人の生活ぶりが分かるようにした。  (10月7日中日新聞)



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2008年10月01日

特別展:「神籠石とその時代」 激動の7世紀を紹介−−行橋市歴史資料館 /福岡

 行橋市中央の市歴史資料館(山中英彦館長)で、同市津積(つつみ)の御所ケ岳に残る国史跡で7世紀の山城の城壁「御所ケ谷神籠(こうご)石」にちなんだ特別展「激動の7世紀―御所ケ谷神籠石とその時代」が開催されている。16日まで。

 神籠石は切り石を積み重ねた石垣状の遺跡で、御所ケ岳に約3キロに渡って断続的に残っている。日本が663年に百済支援で朝鮮半島に出兵し、唐・新羅に敗れた「白村江の戦い」の後、新羅による侵入に備えて築いたとされ、山口、福岡、佐賀の10市町に同様の国史跡が残る。

 昨年から、10市町がその活用を探る「神籠石サミット」を開始。特別展は3、4日に同市で第3回サミットが開かれるのに合わせて企画した。神籠石の写真、説明パネル、神籠石に使われたと考えられる御所ケ岳の花こう岩など、計約150点の史料を展示している。 (10月1日毎日新聞)


〜この城壁を作る際には1000年以上も残存して研究されているなんて思いもよらなかったでしょうね。

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平安前期の神社本殿跡を発見 東近江・金貝遺跡 流造で最古か…

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 滋賀県文化財保護協会は1日、平安時代前期に建てられた三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の神社本殿とみられる掘立柱建物跡が、東近江市野村町の金貝遺跡で見つかったと発表した。これまでに確認された最古の流造神社建築より2−300年も古いうえ、流造は礎石や土台の上に建てられるという神社建築史上の定説を覆す可能性があるとしている。
 掘立柱建物跡は幅約6メートル、奥行き約7メートル。直径約50センチから1メートルの柱穴が2−3メートル間隔で16カ所あり、柱穴の配置から、正面のひさしが長くせり出し正面の幅が三間(約6メートル)ある三間社流造の神社建築とみられる。
 建物跡の南東約60メートルにあった別の掘立柱建物跡で、9世紀後半から10世紀前半とみられる墨書土器が出土しており、協会は神社建築跡も同時期の可能性が高いと判断した。
 9世紀後半から10世紀前半であれば、最古の流造神社建築とされる平安時代後期の宇治上神社本殿(京都府宇治市)を2−300年さかのぼる。さらに、今回の遺構は掘立柱建物跡で、室町時代以前の流造神社建築は礎石や土台の上に建設される、との定説に沿わない。
 協会は「神社が後に移転されたため、遺構が残ったのだろう。神社建築の起源を考える上で貴重な発見だ」としている。
 金貝遺跡は、ほ場整備事業に伴い2007年度から調査している。 (10月1日京都新聞)



〜立派な流造の神社の起源になる建築物だったようですね。復元図を見ると、高床式の本殿に階段が上っているようです。

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