ダイソン オンラインストア 221616.com【ガリバー】

2012年06月09日

「玉日姫」御廟所:親鸞の妻?の骨発掘

 京都市埋蔵文化財研究所は8日、西岸寺(さいがんじ)(京都市伏見区)にある浄土真宗の祖、親鸞の妻との伝承がある「玉日姫(たまひひめ)」の御廟所の塚から、江戸時代後期の骨つぼと焼けた人骨が見つかったと発表した。人骨の性別や年齢、時代などは確認できなかった。同研究所では「考古学的には玉日姫との関連は不明だが、江戸時代後期の改葬の記録と今回の調査結果とは、時代的には整合性がある」としている。

 調査は同寺を含む西飯食町(にしいいじきちょう)遺跡の発掘調査として4月に実施。塚は初めて調査された。直径約3・5メートル、高さ0・8メートルの円形の御廟所の塚の下には、江戸時代後期の盛り土を確認し、その下に骨つぼとして使われたとみられる火消しつぼや焼けた骨片があった。

 同寺は平安時代末に関白・藤原忠通が建てたと伝えられる法性寺小御堂があった場所。寺伝によると忠通の子、九条兼実の娘・玉日姫が親鸞と結婚し、ここで亡くなったとされる。同寺の碑文などには玉日姫の御廟所を嘉永5(1852)年に改葬したとの記述があり、今回の調査結果とも一致している。

 親鸞の妻については恵信尼(えしんに)とされており、1921(大正10)年に自筆の手紙が見つかり存在が確認されている。玉日姫は九条家の系図や兼実の日記「玉葉」の中で確認できない半面、鎌倉〜南北朝期の成立とされる文書などに親鸞との結婚に関する記述が見られ、その存在自体も謎に包まれている。

 調査にあたった山形大の松尾剛次教授(日本仏教史)は「今回の成果で、実在しないとされてきた玉日姫の存在がほぼ確実になったのではないか」と話している。毎日新聞 6月9日

posted by やまちゃん at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

縄文の女神:14年ぶり里帰り 西ノ前遺跡出土の土偶、あすまで舟形で展示

 「女神」が14年ぶりに帰ってきた−−。国宝に指定されることが決まっている舟形町西ノ前遺跡出土の土偶「縄文の女神」を同町で展示する「里帰り展」が8日、町中央公民館で始まった。人口約6100人の小さな町は、明るいニュースをもたらした我が町の土偶の里帰りに沸き返った。同展は、10日まで。【前田洋平】
 土偶は、高さ45センチ、幅17センチで日本最大。直線的で流麗な立ち姿から「縄文の女神」と呼ばれる。里帰り展初日は同町中央公民館2階の1室に設けられた展示スペースに、町内外から約1400人が詰めかけ、「女神」の帰還を喜んだ。
 見学に訪れた同町長者原、無職、井上寿士さん(86)は、当時遺跡発掘に携わったという。「かけらが出てきた当初、こんなに貴重なものだと分からなかった。貴重なものと見極め、残りの部分を入念に探したのは、発掘担当者の先見の明があったから。こうして国宝に指定されるようになって、本物と再会できたのは何よりの喜び」とうれしそうに語った。

 発掘調査を担当し、「女神」発掘を指示した県教委文化財保護推進課の嘱託職員、名和達朗さん(61)は「おそらく祭りなどで使用された後に、役目を終えて、砕かれ捨てられた土偶。今は縄文時代の人々の生活などを私たちに知らせる新たな役目を果たしてくれている」と興奮気味に語った。
 町内の3小学校からは全校児童合わせて209人も見学に訪れた。舟形小1年、高橋蘭さん(7)は「土にずっと埋まっていたのかと思うとすごい」と見つめていた。
    
 10日、午後1時半から同公民館で、文化庁文化財部美術学芸課の原田昌幸主任文化財調査官が「土偶の発生と成長、そして形の面白さ」と題して記念講演を行う。


 県立博物館(山形市霞城町)は、30日から9月17日まで、企画展「豊穣(ほうじょう)と祈り−−縄文女神たちの宴と古墳時代人の想い−−」を開催する。「縄文の女神」の他、長野県茅野市棚畑遺跡出土の国宝土偶「縄文のビーナス」や青森市・三内丸山遺跡出土の大型板状土偶など約500点を展示する。毎日新聞 6月9日




posted by やまちゃん at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「鷹島神崎遺跡」調査 琉大と長崎県松浦市が協定

 琉球大学(岩政輝男学長)は4日、13世紀の元寇(げんこう)の際に沈没したとみられる船が見つかった長崎県松浦市の「鷹島神崎遺跡」に関する連携協定を同市と結んだ。今後、両者は同遺跡の調査研究や保存について、さらに連携を深めていく方針だ。

 「鷹島神崎遺跡」では、同大の池田榮史教授(考古学)の研究チームが2011年10月に元寇の沈没船とみられる船の一部を発見した。12年3月には、海底遺跡としては国内初の国指定史跡となっている。
 池田教授は、今年も海中での同遺跡の調査をする予定で「船の全容を明らかにしたい。この調査に関しては海外からの問い合わせも多く、注目されているので、今後大学としてどう発信していけるかを考えたい」と今後の調査研究の抱負を語った。

 連携協定を結んだ同市の友広郁洋市長は「行政として保存活用をしていきたい。(同遺跡が)水中考古学のメッカとなることを望む」と話した。

 同大の岩政学長は「しっかりした研究を行い、保存していく必要がある。お互いに協力しながら取り組みたい」と述べた。琉球新報 6月8日







posted by やまちゃん at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月06日

卑弥呼眠る?箸墓古墳、3次元航空レーザー計測

 邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(3世紀後半、全長約280メートル)について、県立橿原考古学研究所(同県橿原市)と測量会社「アジア航測」(東京)は5日、3次元航空レーザー計測システムを使って作製した精密な立体地図を発表した。

 同古墳は最初の大型前方後円墳とされ、全国にある古墳の成立過程の解明につながると期待される。

 地表にヘリコプターからレーザー光を当てて計測。後円部は5段、前方部は3段に築造され、後円部頂上にある円丘の周囲に、環状の高まりがあることが初めて確認された。陵墓として宮内庁が管理、詳しい調査がこれまで行われていなかった。同研究所の菅谷文則所長は「日本国家の起源を解明する鍵となる古墳の形状が明確になったことは重要な成果だ」と話している。読売新聞 6月6日





posted by やまちゃん at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

<和同開珎>宮崎で出土…南九州で初、日向国府跡から

 宮崎県西都市の日向国府(8世紀後半〜9世紀ごろ)跡から、奈良時代に鋳造された貨幣「和同開珎(わどうかいちん)」と「萬年通宝(まんねんつうほう)」各2枚が見つかった。九州での古代貨幣の出土は珍しい。これら2種類の貨幣出土はこれまで熊本県が南限で、南九州では初。5日発表した同市教委は「南九州に貨幣がもたらされた貴重な証拠。地鎮祭のため使われたらしい」と見ている。

 日向国府跡(約1万平方メートル、国史跡)は奈良〜平安時代、都から派遣された国司が政務を執った役所の遺跡。昨年度、約700平方メートルを調査し、貨幣は正殿跡から4枚がさびで付着した状態で見つかった。

 和同開珎は708〜759年に鋳造され、日本で最初に通貨として確実に機能した貨幣。萬年通宝は760〜765年の鋳造。日向国府では8世紀後半に使われたと見られる。市教委によると、正殿の基壇(土台)造営に伴う地鎮祭のため埋められた可能性が高いという。下関市立大の桜木晋一教授(貨幣考古学)は「古代貨幣は畿内ではかなり出土するが他は少ない。律令政府関連の施設からは貨幣が出ることを証明した」と話している。毎日新聞 6月5日







posted by やまちゃん at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天理の西殿塚古墳 通路中央部に窪み 奈良

 県立橿原考古学研究所が5日、公表した箸墓(はしはか)古墳(桜井市)の3次元(3D)画像。同時に作製した天理市の古墳時代前期の前方後円墳「西殿塚古墳」の3D画像でも、前方部から後円部につながる通路の中央部に窪(くぼ)みがあることなどが確認された。

 

 橿考研は「古墳時代初期の大和古墳群の形態の変遷などを知る手がかりになる」としている。

 同古墳は、3世紀後半〜4世紀初めの築造とされる。全長約230メートルで、後円部の直径は約140メートル。宮内庁は、継体天皇の皇后、手白香(たしらかの)皇女陵(衾田(ふすまだ)陵)として管理している。

 橿考研と測量会社「アジア航測」(東京)が合同で今年4月、同古墳にヘリコプターで上空からレーザー光を照射して測定した。

 その結果、前方部から後円部につながる通路の中央部に窪みがあることが判明。

 さらに、従来は東側が1段、西側が2段との説もあった同古墳の前方部が、今回の測定の結果、東側が3段、西側が4段で、後円部と同じ段数であることも確認された。

 橿考研の西藤清秀副所長は「レーザー測定によって、西殿塚古墳の明瞭な墳丘形状が分かった」と話している。産経新聞 6月6日






posted by やまちゃん at 20:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月04日

屋久杉に宇宙変動の跡=奈良時代の超新星爆発か

 鹿児島県・屋久島で伐採された樹齢1900年の屋久杉の年輪を分析した結果、奈良時代後期の775年に宇宙で何らかの変動があったことが分かったと、名古屋大太陽地球環境研究所の増田公明准教授らのグループが発表した。超新星爆発か、太陽表面で巨大な爆発が起きた可能性があるという。研究成果は3日付の英科学誌ネイチャー電子版に掲載された。
 研究グループは1956年に伐採された屋久杉を入手。750〜820年に該当する年輪を切り出し、年代測定の手掛かりに使われる炭素14を抽出した。
 炭素14の量は、超新星爆発や恒星表面の爆発(フレア)で発生する宇宙線の量によって変化する。年輪の炭素14は、太陽の11年ごとの活動周期に応じて増減していたが、775年は20倍多く変化していた。
 この急激な増加の原因を、超新星爆発と仮定すると、地球の比較的近くで爆発が起きたことになる。太陽のフレアが原因とすると、通常の1000倍のエネルギーを放つ巨大な爆発(スーパーフレア)が起きた計算になるという。時事通信 6月4日






posted by やまちゃん at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月03日

建設現場で偶然発見された墓跡、前漢・後漢の銅銭や壺が相次ぎ出土―山東省

2012年5月30日、中国・山東省シ博市(シ=さんずいに上がまがりがわで下が田)張店区の建設現場で発見された墓跡の発掘作業が進められていた。魯中晨報が伝えた。
既に発掘が完了している6個の墓のうち、5個が後漢(25〜220年)のもので、1個が前漢(紀元前202〜8年)のものと思われる。これまでに26枚の銅銭と8個の壺、2個の銅製の鏡、1個の銅製のかんざしが出土している。

前漢のものと思われる墓跡から見つかった人骨には辰砂(しんさ)が付着していた。防腐作用のある辰砂が塗られた人骨は少なくないが、同市では珍しいという。また、この人骨の配置がバラバラになっていたため、専門家は一度ほかの場所で埋葬され、その後何らかの理由で現在地へ移動したとみている。また隣接するように墓跡があったため、夫婦もしくは家族の墓ではないかと考えられている。

さらに、発掘が完了した6個のいずれの墓よりも大きい、墓までの道が作られている墓跡も見つかった。遺跡全体の発掘作業はあと半月ほど必要だという.Record China 6月2日
posted by やまちゃん at 09:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

土石流に埋もれた遺跡 十和田火山噴火

 火山の大噴火によって埋もれたイタリアの古代都市ポンペイになぞらえ、「日本のポンペイ」と呼ばれる胡桃(くるみ)館(だて)遺跡=北秋田市綴子。67〜69年の調査で、915年に起きたとみられる十和田火山の噴火で発生した土石流に埋没した4棟の建物が見つかった。
 現場は十和田火山の南西約100キロ。地表から2〜3メートル下に当時の建物が建ったまま埋没していた。いわばタイムカプセル状態で、全国的にも貴重な例。同遺跡からの出土品は09年、国重要文化財に指定された。
 林信太郎・秋田大教授は「十和田火山の噴火は有史以来国内で最大規模。胡桃館遺跡は過去の生活がそのまま残されていて、火山泥流の遺跡として重要」と評価する。北秋田市教委の榎本剛治さんは「1000年前の災害を今に伝える重要な価値を持つ」と話す。
 この噴火による噴出物は6・5立方キロメートル(東京ドーム約5400杯分)と推定されている。火山灰は宮城県でも残っており、火災泥流は米代川流域一帯、河口の能代市までなだれ込んだという。京都・延暦寺の僧侶が平安時代に書いた「扶桑略記」には、915(延喜15)年8月18日、京都で朝日が陰ったとの記述がある。
 同市教委は専門家らと協力し、他に埋もれた建物がないかを確認するため、08年から胡桃館遺跡の周辺で地中レーダー探査を実施。4、5カ所で反応があったという。
 榎本さんは「地元では胡桃館が土石流で埋まったため、高台の綴子集落に移り住んだのではないかと言われている。遺跡の調査を進め、災害を昔の人がどう乗り越えたのかわかれば、これからの防災のヒントになる」と今後の調査に期待する。
   ◇   ◇
 ところが、これだけの規模の噴火にもかかわらず、十和田火山の噴火を記録した古文書は見つかっていない。一方、十和田湖には有名な民話「八郎太郎」が伝わる。1966年の論文「1000年前のシラス洪水」(平山次郎・市川賢一)はこの物語と噴火を結びつけ、当時の様子を記した伝承だと指摘している。
 「八郎太郎」は地域ごとに細部は異なるが、八郎太郎がイワナを食べて沢の水を飲み干し、大蛇となり十和田湖の主となったが、南祖坊という男に挑まれ、山を崩すような激しい戦いを繰り広げ、敗れて米代川を西へ下り八郎潟にたどり着く、とされる。
 元高校教諭の藤本幸雄さんは「十和田火山の溶岩の跡と八郎潟まで逃げていく八郎太郎が類似している」と話す。地質学が専門の藤本さんは、赴任先の学校で八郎太郎の物語を挙げ、火山について教えていたという。
   ◇   ◇
 噴火が文書以外の形で伝承されるケースは鳥海山でもみられる。
 象潟町史によると、鳥海山は竜頭山とも呼ばれ、鳥海山信仰と竜との関係性は深い。871(貞観13)年の噴火では泥流が2匹の大蛇のように流れ下ったとする文献があり、この様子が鳥海山の神を竜とする元になったという。また、朝廷は噴火など異変があるたびに出羽国大物忌神(鳥海山の祭神)に位階を授け、物忌の祈とうを行わせた(鳥海町史)。
 鳥海山麓(さんろく)の集落に伝わる「延年チョウクライロ舞」も竜と関わりが深い。七つの舞の一つ「閻浮の舞」で使われる陵王の面には竜頭がつく。民俗信仰で陵王と竜王は混同され、陵王の舞は鳥海山の祭神が降臨する舞として現在も受け継がれている。毎日新聞 6月2日





posted by やまちゃん at 07:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

流失の古文書を復元

 東日本大震災の津波で流失した宮城県南三陸町の志津川西宮神社の古文書を復元していた「えびす神社」の総本社、西宮神社(兵庫県西宮市)の作業が終わり、文書が志津川西宮神社に届けられた。震災前年の撮影データを基に修復業者が本物そっくりに再現した。

 古文書は江戸時代の1742〜69年に西宮神社が発給した「西宮大神宮神像札賦与免許状(にしのみやだいじんぐうしんぞうふだふよめんきょじょ)」など8点。えびす様の描かれた札の頒布を許可する書状などで、当時のえびす信仰の広がりを示す貴重な資料という。
 志津川西宮神社で神社を護持する「別当」の水産加工業川村由幸さん(56)宅に保管されていたが、津波で流失した。震災前の2010年6月に調査のために西宮神社が撮影していたデータなどを基に修復業者が紙質やしわなども再現した。
 5月26日、志津川西宮神社で神前に復元した文書を備え神事を執り行った。川村さんは「復元してくれて大変ありがたい。大切に保管したい」と笑顔を見せた。
 西宮神社も、阪神大震災で絵馬殿が倒壊するといった被害が出ていた。「たとえ復元品でも、気持ちが少しでも和んでくれれば」と話していた吉井良昭宮司(60)は「無事届けられてほっとしている」と安堵(あんど)の表情を浮かべた。河北新報 6月2日






posted by やまちゃん at 07:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

弥生時代前期の農耕遺構が出土

 徳島大蔵本キャンパス(徳島市蔵本町)内の「庄・蔵本遺跡」で弥生時代前期とみられる農耕関連遺構が見つかり、同大埋蔵文化財調査室が1日発表した。用水路列か畑跡と推定され、今後土壌を分析し遺構の機能を特定する。2日午前10時から現地説明会を行う。

 講堂改修に伴う発掘調査で出土。用水路とみられる幅1・5メートルの溝と、ほぼ同じ幅の畦(あぜ)か畝が4列連なっている遺構で、同時期に発生した洪水によって埋没していた。

 中村豊准教授は「農耕関連遺構がこれほど良好に残り、見つかるのも珍しい」と評価している。産経新聞 6月2日

posted by やまちゃん at 07:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月01日

松本城・本丸庭園を市民に無料開放−城への愛着

 松本市は6月1日から、国宝松本城の本丸庭園を市民に無料開放する。(松本経済新聞)

 入場できるのは天守閣を除く本丸庭園で、通常大人600円、小中学生300円の観覧料が無料になる。無料入園には、市民であることが確認できるもの(運転免許証、障害者手帳、健康保険証、行政サービスで発行している福祉100円バスのパス券や図書館カードなど)の掲示が必要。

 これまで夜桜会や薪能、そば祭りの際など、イベントに合わせて無料開放を行ってきたが、市民を対象にした通年開放は初めて。3カ月間を試行期間とし、その後、本格実施を行うかどうかを検討する。「地元の人は近くまで来ても、有料だと中には入らないという人も多い。もっと城に親しんでほしい」と松本城管理事務所担当者。気軽に足を運んでもらうことで、城への愛着を深め、中心市街地のにぎわい創出にもつなげる狙い。

 昨年度からスタートした、甲冑(かっちゅう)武者が撮影などに応じる「おもてなし隊」も好評。1日2回登場し、活動している。「特に外国人観光客に評判がいい」と同担当者。「地元だと松本城は『当たり前』の風景かもしれないが、外から来た人は本当に感動してくれる。城の良さを市民の皆さんにも感じてもらいたい」とも。

 無料開放は8月31日まで。「おもてなし隊」の活動は10時〜11時、14時〜15時ごろ。







posted by やまちゃん at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

浅間山噴火で泥流、キセル放置…埋没の集落跡

 江戸時代中期の1783年(天明3年)に起きた浅間山噴火に伴う泥流で埋没した集落跡、群馬県長野原町の東宮(ひがしみや)遺跡で、被災した瞬間の状態を保った遺構や遺物が多数見つかった。

 当時の混乱ぶりを示す貴重な発掘成果として注目される。

 遺跡は吾妻川(あがつまがわ)沿いの河岸段丘上に位置する。県埋蔵文化財調査事業団が2007〜09年に発掘したところ、7か所の屋敷跡から、主屋(おもや)とみられる建物6棟や酒蔵、畑などが泥流に埋まった状態で出土。今春まで整理作業が行われていた。

 遺跡で最も大きい建物(幅20・2メートル、奥行き12・8メートル)では、下駄(げた)が計46点出土。下駄に刻まれた屋号とみられる印が複数確認されたことから、被災直前に多くの人が集まって対策を話し合っていた様子がうかがえるという。

 別の主屋のいろりの近くでは、刻みタバコが詰まったままのキセルが見つかった。火をつけて吸う前に放置されたらしく、あわてて逃げた状況が想像される。






posted by やまちゃん at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月29日

江戸時代のコンパス出土

東京・新宿区の市谷仲之町遺跡で、江戸時代(18世紀半ば)の製図用の金属製コンパスが出土した。

 現代のものとほとんど変わりない形状で、貴重な発見だ。

 都埋蔵文化財センターの調査によると、コンパスは長さ7・8センチ、幅6ミリ、重さ20グラム。真ちゅう製(軸部は鉄製)で先端部分は欠損していた。

 2010〜11年の発掘で、地下室の遺構(深さ約1・5メートル)から、陶磁器や鉄製のナタなどとともに出土した。遺跡周辺は17世紀から幕末まで、「根来与力百人組」という下級武士の屋敷があった場所にあたる。

 文献には、ここに住んでいた与力が1813年に、暦作りの測量にかかわる職についていたことが記されており、関係が注目される。
posted by やまちゃん at 21:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

吉備池廃寺:「素弁」軒丸瓦を初発見 斑鳩寺と同じ型枠

 日本で初めての勅願寺とされる百済大寺(くだらのおおでら)と推定されている桜井市の吉備池廃寺で、素弁蓮華文軒丸瓦(そべんれんげもんのきまるがわら)が初めて見つかった。桜井市教委によると、斑鳩寺(斑鳩町)や四天王寺(大阪市)で出土している瓦と同じ型枠で作られた瓦で、建立の謎の解明につながる貴重な資料になるという。軒丸瓦は現在、同市立埋蔵文化財センターで初公開されている。【矢追健介】
 奈良国立文化財研究所(当時)の97年の調査で、飛鳥時代最大の金堂基壇跡が見つかり、吉備池廃寺と命名。日本書紀に舒明(じょめい)天皇が639年に建立の詔をしたと記される百済大寺である可能性が高まり、翌98年には100メートル近い高さだったとみられる塔の基壇跡も確認された。
 吉備池廃寺で見つかった瓦はこれまで、花びらの文様の中に子葉がある「単弁蓮華文軒丸瓦」で、この瓦の型枠はその後、四天王寺で用いられた。

 ところが、今年1〜2月に同市教委が実施した発掘で出土した「素弁」の軒丸瓦の文様には子葉がなく、より古いタイプと判明。型枠は「単弁」の軒丸瓦とは逆に、斑鳩寺若草伽藍(がらん)と四天王寺創建時の瓦を作った後で、吉備池に持ち込まれたと考えられている。寺院間での型枠の移動の方向が異なっており、建立のあり方が複雑だった可能性もあるという。


 菱田哲郎・京都府立大教授(考古学)は「これらの寺は相互に密接な関係があった」とし、大化の改新後に左大臣になった阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしのまろ)に注目。「阿倍倉梯麻呂は百済大寺の造寺司だったとする記録があり、日本書紀には648年に四天王寺へ仏像4体を納めたという記事がある。百済大寺の建立に、阿倍倉梯麻呂が関わっていたことの実証につながるのではないか」と評価する。また、吉備池廃寺で過去に出土している「軒平瓦」の型が、斑鳩寺の型と同じであることから、聖徳太子の一族が吉備池廃寺の建立にも関係していた可能性もあるとしている。


posted by やまちゃん at 21:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月27日

萩前・一本木遺跡:古墳時代の首長居館跡出土

 高松市教委は、同市仏生山町甲の古墳時代中期から近世の集落跡「萩前(はぎのまえ)・一本木遺跡」で、古墳時代後期(6世紀ごろ)の首長クラスが使ったとみられる居館跡が見つかったと発表した。居館と集落は溝で区画されており、同様の構造を持つ遺跡の発掘は松山市の「樽味四反地(たるみしたんじ)遺跡」に次いで四国で2例目という。
 居館跡は市立病院の建設に伴い、昨年4月から続けられている発掘調査で確認。南辺30メートル以上、西辺20メートル以上の規模に掘られた溝(幅約2メートル、深さ約1・7メートル)により、外側の集落跡と区画されているのが特徴で、方形の溝に囲まれていたと推定されている。
 居館跡では、竪穴建物や掘立柱建物の遺構が複数確認されており、須恵器や土師(はじ)器の破片も見つかっている。一方、溝はV字形に掘削されており、防御を目的として掘られたと考えられるという。古墳時代後期の間だけでも、居館跡では時期の異なる複数の建物が建てられていることから、市教委は「高松平野にいた有力者が長期間、居住した跡ではないか」と推定している。
 発掘作業は8月まで続けられ、個々の建物の規模や構造について、調査を進める。市教委文化財専門員の波多野篤さんは「実態がよく分かっていない古墳時代の集落について、解明していくモデルケースになるのではないか」と期待している。
posted by やまちゃん at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「卑弥呼の鏡」コンパスで製作?形状33面一致

 邪馬台国の卑弥呼が中国・魏から受けたとの説もある三角縁神獣鏡の製作に、「挽型(ひきがた)」と呼ばれる木型が使われていたとみられることが、奈良県立橿原考古学研究所の調査でわかった。

 円形の鋳型を作る際、コンパスのように回転させて使う道具で、謎の多い鏡の製作過程を知る手がかりになると期待される。27日に東京・立正大で開かれる日本考古学協会総会で発表される。

 挽型は、鋳型の断面を刻んだ板で、軸を中心に回転させて粘土などを削り、立体的な鋳型にする。同研究所が、それぞれ同じ文様を持つ9組の鏡計36面について、精密なデータを比較。このうち、7組の33面で、挽型の軸を立てた際にできたくぼみとみられる跡や、同心円の凹凸の形状が完全に一致した。
posted by やまちゃん at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月24日

隠岐の島に採掘跡

 隠岐の島町久見で約2〜3万年前の後期旧石器時代に黒曜石を採掘していた跡が見つかった。黒曜石の採掘跡は全国各地で見つかっているが、旧石器時代のものが発見されるのは全国的にも珍しい。採掘跡周辺では、黒曜石製の石器も多数見つかっており、大規模な石器製作場があったと見られる。発掘した研究者は「山陰の旧石器文化の特徴解明につながる発見」と、研究進展に期待を寄せる。【宮川佐知子】
 広島大大学院の竹広文明准教授と世界ジオパーク登録を目指し活動する「隠岐ジオパーク戦略会議」(八幡浩二会長)、同町教委が19日、発表した。黒曜石は石器の材料として利用される火山岩の一種。隠岐の黒曜石を使った石器は各地で発見されている。
 調査開始は07年に豪雨のため高さ約5メートルの崖が崩れたのがきっかけ。竹広准教授が黒曜石が採れる地層を人為的に掘ったくぼみと黒曜石製石器を崖下で見つけた。08年にはくぼみ下部から、石を砕く石器「ハンマーストーン」などを発見。昨年9月には、後期旧石器時代のナイフ形石器など黒曜石製石器約20点も確認された。
 また、崖から約17・5メートル内側の地点を深さ約2・5メートル掘り進めたところ、黒曜石が採れる地層を発見。採掘場が広範囲に広がっていることも確認された。採掘場は良好な状態で残っており、竹広准教授は「土砂が堆積(たいせき)して埋没したため残った。国内でも珍しい遺跡だ」と説明した。
posted by やまちゃん at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

奥平家しのび、戦国絵巻

 中津市の中津城で19日、4代目城主の奥平家をしのぶ「たにし祭」があった。武者行列や火縄銃撃ちなどの戦国時代絵巻に、大勢の見物客が見とれた。
 織田信長の名を高めた長篠の戦いで、奥平家が長篠城に立てこもり、援軍到着まで、堀のタニシで飢えをしのいだとされる故事にちなむ奥平神社の例大祭。城内ではタニシの佃煮(つくだに)が振る舞われた。
 甲冑(かっちゅう)を身に着けた若武者らがJR中津駅から凱旋(がいせん)行列しながら中津城へ。本丸で陣を張っていた長篠・下原鉄砲隊(愛知県新城市)が火縄銃の祝砲で出迎えた。耳をつんざくごう音とともに筒先から白煙が上がった。その後、若武者らが勝ちどきを上げた。
 東日本大震災復興支援として募金箱を置き、天守閣の入場料やオリジナルグッズの売り上げの一部も寄付する。
posted by やまちゃん at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月27日

畑ヶ田遺跡:銭貨入った土器のかめ見つかる

 富田林市若松町1の「畑ヶ田(はたけだ)遺跡」から、銭貨5枚が納められた土器のかめや、掘っ立て柱の建物跡が見つかった。市教委は27日午前10時から正午まで、現地説明会を開く。

 遺跡は、弥生時代から中世にかけての集落跡。保育園建設に伴って、市教委が7月から約760平方メートルを発掘調査していた。

 市教委によると、今回の発掘はいずれも奈良時代の物。銭貨は1枚に「開」とみられる字があり、「和同開珎(わどうかいちん)」か「神功開宝(じんぐうかいほう)」と推定。複数枚の銭貨が納められた土器の発見は、府内では2例目という。柱穴は大きいもので一辺約1メートルあり、最大で直径約40センチの柱を持つ建物が存在していたとみられる。(8月27日毎日新聞)



posted by やまちゃん at 20:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 未配信ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
JAL 日本航空 宿・ホテル予約ならじゃらんnet 京王百貨店 京王百貨店 楽天トラベル株式会社
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。