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2009年08月01日

士島田遺跡:子ども埋葬用の壺棺21基、集落中心部から集中出土

 ◇弥生後期後半の土層
 県埋蔵文化財センターは31日、南国市東崎周辺の士島田(ししまだ)遺跡から、弥生時代後期後半(3世紀ごろ)の大型住居跡8軒と子どもの埋葬に使われたとみられる壺棺(つぼかん)21基などが見つかったと発表した。壺棺は集落の中心から出土しており、同センター専門調査員の近藤孝文さんは「子どもの骨ということで、近くに弔いたいという意識があったのでは」と話している。現地説明会は来月2日午後1時半から。

 07年5月に始まった国道195号改築工事に伴う発掘調査の一環で、調査面積は約2万6000平方メートル。同遺跡集落の中心部に当たり、ほかに弥生時代後期から古墳時代の竪穴住居跡、掘立柱建物跡なども見つかった。

 同センターによると、壺棺は弥生土器で、最大のもので直径約70センチ、深さ約60センチ。子どもの骨を入れて埋葬するために使われたとみられ、合わせぶたが付いていたり、壺の中に更に小さな壺を入れたものなどそれぞれ特徴が異なっていた。

 壺棺は近くの遺跡からもいくつか見つかっているが、これほどの数が集中して見つかるのは県内でも例がないという。また、8軒分の大型住居跡も同時代のものとしては県内最多で、近藤さんは「この地に大規模な集落があったことを示すもので、大きな成果」と話している。(8月1日毎日新聞)



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2009年07月30日

土壙墓から人骨13体 四隅から目印?の杭、奈良の縄文遺跡

 縄文時代の大規模な集落跡が見つかっている観音寺本馬遺跡(奈良県橿原、御所両市)で、縄文時代晩期(約3000年前)の穴を掘って遺体を入れる土壙墓(どこうぼ)16基と人骨13体が発見され、県立橿原考古学研究所が30日、発表した。一部の土壙墓からは、四隅に打たれた杭(くい)や杭跡が見つかった。四隅に杭が打たれた土壙墓の出土例はないといい、同研究所は「墓の場所を示す目印だったのでは」としている。

 土壙墓16基は東西約30メートル、南北約20メートルに集中。穴は縦1・0〜1・8メートル、横0・7〜1・1センチ、深さ20〜80センチで当時の標準サイズ。四隅の杭は6基で確認され、太さ5〜10センチ。長さは1・2〜1・5メートルあったと推測されている。

 杭は複数の人骨が埋葬された3基すべてで確認され、同研究所は「遺体を複数回に分けて埋葬するため、位置を明示したと考えられる」と指摘している。

 人骨はいずれも縄文人の特徴を備え、うち1体からは、上の前歯2本を斜めに研磨した「斜状(しやじよう)研歯(けんし)」が確認された。

 片山一道・京都大名誉教授(骨考古学)は「斜状研歯が見つかったのは津雲貝塚(岡山県)に次いで2例目。特別な人物とみられ、縄文時代の社会組織を知る上で非常に興味深い」と話している。(7月30日産経新聞)






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2009年06月17日

蘇我入鹿邸の「城柵」か 甘樫丘東麓遺跡から新たな石垣

 古代史最大のクーデター「大化の改新」(645年)で暗殺された蘇我入鹿(そがのいるか)の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)東麓(とうろく)遺跡で、7世紀前半の石垣が新たに出土し、奈良文化財研究所が17日発表した。平成19年に出土した石垣の南側に延び、全長は34メートルに達した。同研究所は「石垣は日本書紀に登場する蘇我氏邸宅の『城柵(きかく)』だった可能性もある」としている。

 今回見つかった石垣の長さは約19メートル。直径40〜20センチの河原石を傾斜面に積み上げ、高さは最大約1メートル。幅約8メートルの谷の東岸を固めており、東側の敷地を守る目的があったと推測される。

 日本書紀は、644年に蘇我蝦夷(えみし)と子の入鹿が甘樫丘に邸宅を建て、家の外には城柵をつくったと記述。同研究所は「石垣が644年以前にあったとすれば、石垣が「城柵」だった可能性は十分に考えられる」という。

 似たような石垣は、白村江(はくそんこう)の戦(663年)で日本とともに敗れた百済の亡命技術者の指導で九州や瀬戸内海沿岸などにつくられた朝鮮式山城に例がある。

 猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)は「今回の石垣は白村江の戦より古く、蘇我氏が朝鮮半島の最新技術を取り入れてつくったものだろう。王権に迫ろうと宅地造成を繰り返し、石舞台古墳など石の化粧に権力を見いだした蘇我氏の性格をさらに強調する成果」と話している。

 現地見学会は21日午前11時から午後3時まで。同研究所の調査員が1時間ごとに解説する。 (6月17日産経新聞)





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2009年06月09日

姉川流域の縄文〜古墳期にスポット  伊吹山文化資料館 土器など展示

 米原、長浜両市と虎姫町を流れる姉川流域の縄文〜古墳時代の遺跡、出土品を紹介する企画展が、7月12日まで米原市春照の伊吹山文化資料館で開かれている。
 遺跡は、縄文時代は上流の伊吹山のふもと(米原市)に多く、弥生以降は下流(虎姫、長浜)が中心。古墳時代は、川が長浜平野に出る長浜市東上坂町辺りや分水地に豪族・坂田氏が古墳を作って権力を示したという。
 展示されているのは、起し又、伊吹両遺跡(米原市)の縄文土器や石剣、石製やじりのほか、近江でいち早く稲作が始まったとされる弥生時代の川崎遺跡(長浜市)の石包丁、五村遺跡(虎姫町)の周溝墓の入り口に立てられていた鳥形木製品など。 (6月9日京都新聞)




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時計“珍事”の遺跡で、明清代の大型棺の開棺作業

 広西チワン族自治区防城港市の上思県、十万大山の山腹で2008年10月に発見された石灰石、砂、米などを練り合わせて作った「三合土」製の大型棺が9日、中国全土から集まった考古学者など専門家立会いのもと、開棺された。

 この遺跡は、明代(1368−1644年)から清代(1644−1912年)に作られたとみられるが、詳細は不明。保存状態がよく、大型棺の中からの出土品にも注目が集まっていた。

 この遺跡では、「スイス製腕時計」が出土するという“珍事”が08年12月に起き、中国でもインターネットをはじめ各メディアが注目、日本など海外にも紹介されていた。(6月9日サーチナ)

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豊臣秀吉 死因はかっけ? 医師の作家が学会で発表へ

 肺炎や梅毒など諸説入り乱れる豊臣秀吉(1598年没)の死因について、脳神経外科医で作家の若林利光さん(56)=兵庫県姫路市御立東1=が、当時の症状などを基に「かっけだった」とする新説をまとめた。13日に名古屋市で開かれる日本病跡学会で発表する。

 かっけはビタミンB1不足で起きる。足のしびれ・むくみが典型的な症状だが、下痢や失禁、精神錯乱、心不全なども引き起こす。食事が白米中心だとかかりやすく、かつては富裕層に多かった。

 若林さんによると、当時の宣教師がイエズス会に送った報告書に、秀吉が死の直前の約2カ月間、下痢を患って狂乱状態に陥ったとある。別に失禁の記録もあり、いずれもかっけの症状と合うという。若林さんは「かっけで死亡したとされる徳川十四代将軍・家茂(いえもち)と症状が同じ。なぜ今まで『秀吉かっけ説』が提唱されなかったのか不思議なくらいだ」と新説に自信を見せている。 (6月8日毎日新聞)



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2009年06月08日

<高松塚古墳>調査終了、埋め戻しへ

 文化庁は5日、奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末〜8世紀初め)で、壁画の劣化が発覚した04年から続けてきた発掘調査を終了したと発表した。現地は7月までに埋め戻し、墳丘を復元して仮整備する。石室を解体して取り出した壁画は、劣化原因の調査と修復作業が続いており、同庁は再び古墳内に戻すかどうかを検討している。

 同古墳は72年に極彩色の壁画が発見され、76年に鉄筋コンクリート2階建ての保存施設が取り付けられた。しかし、04年にカビなどによる壁画の劣化が進んでいることが分かり、原因を探るため、墳丘の形状や築造方法などについて調査を開始。07年には石室を解体して壁画を取り出した。さらに08年11月から保存施設の撤去を始め、古墳の断面について調べていた。

 これまでの調査で、古墳の築造に適さない谷あいの土地が選ばれていたことが判明。谷は大規模に埋めて整地されており、深さが2・7メートルにも及ぶ場所もあった。調査を担当した奈良文化財研究所の広瀬覚研究員は「古墳の断面を見ることができて築造方法がよく分かった」と話している。 (6月6日毎日新聞)



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秘仏は江戸時代作と判明…頼政礼拝の可能性なし

 平安時代の武将、源頼政(1104〜1180)が礼拝していたと伝えられる、平等院(京都府宇治市)所蔵の秘仏「片袖阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)」(像高約50センチ)が、江戸時代初期の作で、実際に頼政が拝んだ可能性はないことが同院の調査で分かった。平等院ミュージアム鳳翔(ほうしょう)館で6日始まった「頼政830回忌記念特別展」で初公開した。同展は10月16日まで。

 今回の調査で、立像は菩薩に使われる波のような文様をすそに彫ったユニークな造りであることが判明。像は一木造りで、衣装は右肩を脱いでかけられている。立像で右肩に衣がかかっていないのは奈良・平安時代に見られ、すそ以外の衣の文様は鎌倉時代前期の特徴だという。また、木の断面や彫り方などから江戸初期の作とわかった。山本勉・清泉女子大教授(日本彫刻史)は「面白い像だ。古い由緒のある像を、後の修復部分を含めて写し取って造られたのでは」とみる。

 頼政は、平安時代後期、宇治川の合戦で平家に敗れて同院で自刃した。特別展では「源頼政武家像」(江戸時代)や「宇治川合戦図」(同)も展示されている。(6月6日毎日新聞)

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2009年06月02日

纒向遺跡の古墳群、卑弥呼側近を埋葬か 「畿内説」の根拠に

 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡内に集中する纒向石塚古墳(前方後円墳、全長96メートル)など国内最古級の古墳3基について、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループは31日、「放射性炭素年代測定法」によって3世紀前半の築造とする見解を発表した。女王・卑弥呼が擁立され、邪馬台国が隆盛した時期とほぼ合致し、邪馬台国畿内説を科学的に補強する資料として注目されそうだ。


 纒向石塚古墳については出土した炭化物の残存炭素量を測定した結果、西暦200年ごろの築造と推定。土器の形式変化から年代を割り出す考古学的手法では2世紀末〜3世紀前半で、約50年間の幅があったが、今回の分析結果によって年代がさらに絞り込まれることになった。

 また、約200メートル西にある矢塚古墳(同、全長96メートル)は220〜260年ごろ、矢塚古墳の南約300メートルに築かれた東田大塚古墳(同、全長120メートル)は220〜240年ごろの築造の可能性が高いという。

 研究グループは、卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(同、全長280メートル)について、卑弥呼の没年(248年ごろ)と合致する240〜260年築造との見解を出しており、纒向遺跡内の最古級の前方後円墳は(1)纒向石塚古墳(2)矢塚古墳、東田大塚古墳(3)箸墓古墳−の順に築造された可能性が高いとしている。

 炭素年代測定法は数十年単位の誤差が出やすいとの批判もあるが、研究グループの春成秀爾・国立歴史民俗博物館名誉教授(考古学)は「多くの資料を分析することで年代を絞り込むことができた」と精度の高さを強調。纒向石塚古墳などの被葬者については「卑弥呼はまだ生きていた時代なので、彼女を支えた有力者の墓ではないか」としている。

 邪馬台国について中国の史書「魏志倭人伝」などによると、2世紀後半に卑弥呼が擁立され、239年に中国に朝貢するなど3世紀前半を中心に隆盛したとされている。 (5月31日産経新聞)



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2009年04月26日

クレオパトラの墓に迫る?=「世紀の発見」に期待−エジプト

古代エジプトの女王クレオパトラ(紀元前69年―同30年)の埋葬地として有力視されている地中海沿岸の都市アレクサンドリア郊外で近く、同国とドミニカ共和国の合同チームが本格的な発掘作業を始める。エジプト考古最高評議会のザヒ・ハワス事務局長が時事通信のインタビューで語った。

 発掘チームは3月のレーダー調査で、プトレマイオス朝時代に建てられた神殿跡の地下約25メートル地点に複数の空間を発見した。同事務局長は、掘削機器を使って掘り進め、数週間中に結果を公表できるだろうと述べた。

 現場からは既にクレオパトラの彫像の頭部や、肖像をあしらったコイン22枚が見つかったほか、エジプト最大級とみられる集団墳墓も近くで発掘された。

 帝政ローマの著述家プルタルコスは、クレオパトラと、その恋人のローマ将軍アントニウスが一緒に埋葬されたと記している。ハワス事務局長は「この場所は2人が隠された場所としては完ぺきだ。21世紀で最も重要な発見になる可能性がある」と語った。  (4月26日時事通信)



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国内最古級の井戸 岡山・南方遺跡

 岡山市教委が、同市北区の岡山後楽館中学・高校体育館の建設予定地にある、弥生時代の集落跡の南方遺跡で進めている発掘調査で、集落の出入り口にあたる溝や国内で最古級の井戸などを確認し、25日、市民らに公開した。

 同遺跡は東西1キロ、南北800メートルで、東西2つの集落によって構成されたと考えられている。

 今回の調査は、東側集落跡など約2100平方メートルを対象に実施。溝は幅2・5メートル、深さ1メートルで内側には等間隔に並んだ直径20センチの柱穴跡や、柱穴跡が途切れた底部からは集落に入るための橋板の支柱跡が見つかった。

 一方、井戸は直径1・2メートル、深さ1メートルの素掘りで地下の湧水層に通じている。井戸からは弥生時代前期の壷(つぼ)型の土器が出土し、同期に井戸が存在したことをうかがわせる。

 市教委は「集落と外部を区切る溝や入り口、さらにその周辺から弥生時代前期の井戸が見つかり、当時の集落の実態を解明する貴重な手がかりになる」としている。

 この日の現地説明会には考古学ファンら約160人が訪れ、発掘調査の担当者らの説明を受けながら、盛んにメモをとったり、写真を撮ったりしていた。  (4月26日産経新聞)



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2009年04月16日

クレオパトラの墓、発見近い?=アレクサンドリアの古代神殿で発掘調査へ

 エジプト考古最高評議会は15日、古代エジプト・プトレマイオス朝の最後の女王クレオパトラとローマの軍人マルクス・アントニウスのカップルの埋葬場所の発見に一歩近づいたと発表した。同評議会のザヒ・ハワス事務局長とドミニカ共和国のエジプト学者を中心とする調査隊が、エジプトの地中海岸の都市アレクサンドリア西部のタップ・オリシス・マグナ神殿周辺の3カ所に埋葬されている可能性が強いと判断し、来週、これら3カ所の発掘を開始する。

 調査隊は過去3年間にわたって埋葬場所の調査を続けていた。同神殿のレーダースキャン調査によって、可能性のある3カ所が特定された。同神殿は、プトレマイオス朝時代にイシス神を祭るために建造された。

 ローマ時代の著述家プルタークの記述の中に、クレオパトラとアントニウスが一緒に埋葬されたという記録がある。調査隊はこれまでにミイラ10体(うち2体は金箔が施されていた)と27の墓を発見した。ミイラは身分の高い人のものと推定され、2人の埋葬場所が近くに存在する可能性があるという。調査隊はまた、クレオパトラやアレクサンダー大王の肖像が刻印された通貨やクレオパトラのアラバスター製の胸像を発見した。

 クレオパトラは2000年以上前にエジプトを支配し、カエサルが暗殺されるとローマの支配者の1人アントニウスと組んだが、戦いに敗れて2人とも自殺した。 (4月16日時事通信)






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奈良時代の課税台帳か 豆腐町遺跡で発見

 兵庫県姫路市埋蔵文化財センターは16日、JR姫路駅構内の豆腐町遺跡から、奈良時代の課税台帳とみられる紙が見つかったと発表した。紙に漆が付着していたため腐らずに現存したらしい。同様の紙の出土は県内で3例目。

 姫路駅周辺土地区画整理に伴い、同センターが昨年7月から11月末まで発掘調査を実施。奈良時代のものとみられる土器など45点が出土したほか、最大で縦14.6センチ、横14.5センチの漆が付着した紙が見つかった。

 紙は当時貴重だった漆を入れた箱のふたに使われていたとみられる。同センターが奈良県の奈良文化財研究所に分析を依頼したところ、赤外線カメラでの観察で紙の表裏に文字が書かれていたことが判明。識別できたのは表の53文字だけで、「黒麻呂」「大宅女」など6人の名前と年齢が書かれ、その下に大宝令制で年齢区分を示す「少子」などの文字が確認された。

 「17歳」の「黒麻呂」の区分が「少子」と表記され、「続日本紀」で少子が4〜17歳となったのが天平勝宝9(757)年以降と記されていることから、紙の内容は奈良時代後期の課税台帳と推定。漆がついた紙の出土から同遺跡に漆工房の存在が浮き彫りになり、同センターは「漆工房は官営で、近くに播磨国府といった役所があったことが推定できる貴重な史料」としている。 (4月16日産経新聞)




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2009年04月15日

奈良大:遊牧国家の実像に迫る モンゴルの城郭都市遺跡、初の調査へ

 奈良大(奈良市山陵町)は今年夏ごろから、モンゴル中部の城郭都市遺跡、チントルゴイ・バルガスの調査に乗り出す。創立40周年の記念事業で、同大学としてモンゴルの遺跡を調査するのは初めて。09年度から3年間のプロジェクトで、龍谷大や東京大などの研究者も参画する。11〜12世紀ごろに栄えた遼国(契丹国)の拠点都市だった遺跡で、謎の多い遊牧国家の実像に迫る成果が期待できそうだ。

 チントルゴイ・バルガスは当時、周囲に広大な湖が広がり、多くの木が茂っていたと推測されているが、現在は木1本もないという。建築や燃料のために木が伐採されて環境が変化し、最終的に都市が廃絶した可能性もある。

 調査団は、09年度に土器を中心に生産構造を調査。10、11年度は城郭構造解明のため、発掘調査を予定している。団長を務める同大学の千田嘉博教授(中世考古学)は「この城郭の構造を知ることで、東アジアにおける平城京や平安京の位置づけを比較して考えることができる。また、人間の活動と自然環境のかかわりについても提言できるような成果が出せるのではないか」と話す。 (4月15日毎日新聞)





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2009年04月14日

奈良女子大:興福寺所蔵の国宝「日本霊異記」、詳細画像をネットで公開 /奈良

 奈良女子大学(奈良市)が、興福寺所蔵の国宝「日本霊異記(りょういき)」(上巻)の詳細な画像を、インターネット上で公開し始めた。これまでは、昭和初期に刊行された写真集でしか画像を見ることができないうえ、その写真集も入手困難なため、研究が不自由な状態だった。寺側の協力により同大学が昨年、デジタルカメラで原本を撮影。日本の古代文学研究に役立つと期待されている。

 ◇寺の協力で原本撮影
 同大学では約15年前から、県内の寺社などの協力で、絵画や古典籍の画像をネット上で公開する取り組みを続けてきた。これまでに100点以上を紹介したが、国宝は初めて。
 日本霊異記は、9世紀初めに僧の景戒が漢文で著した日本最古の仏教説話集。上中下3巻で、良いことをしたら良い報いがあり、悪いことをしたら悪い報いがあると説く。興福寺本(縦約30センチ、横約870センチ)は上巻のみの巻物で、1922年に東金堂で発見された。「延喜4(904)年」と記されており、現存最古の写本とされる。

 現在も、この本を基礎にした書物などを使って研究が続けられてきたが、研究者によって書き下し方が違うため、現物を詳細に見ることが必要とされていた。

 昨春、同大学がネットでの公開を要請したところ、寺が快諾。秋に高精細のデジタルカメラで撮影した。ネット上では、全体を150%まで拡大して細部を見ることができる。巻物の裏に書かれた「衆経要集金蔵論」も撮影して読めるようにした。

 担当した同大学の千本英史教授(中世国文学)は「原本を直接研究することで、新しい発見が期待できる。海外からでも簡単に見られるので、世界の研究者にも情報提供できることは大変貴重」と話している。ホームページ(http://mahoroba.lib.nara‐wu.ac.jp/y14/)。 (4月14日毎日新聞)





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2009年04月09日

中宮寺跡:発掘調査 金堂跡から柱の根石、創建時からの踏襲裏付け−−斑鳩 /奈良

 斑鳩町教委は7日、聖徳太子ゆかりの中宮寺跡(斑鳩町法隆寺東2、国史跡)の発掘調査で、金堂跡から創建当初のものとみられる柱の根石が見つかったと発表した。町教委によると、再建を経ても柱の位置が踏襲されたことを示しており、飛鳥時代の建築を考える上で貴重な資料という。

 中宮寺は7世紀前半の建立とされ、室町時代ごろに約500メートル西の現在地に移った。金堂跡は1963年と84年に発掘調査が行われ、後世に再建・改修されていたことが分かっている。町教委はさらに詳細な基礎資料を得るため、昨年8月から270平方メートルを発掘調査していた。

 基壇の土は、創建時に粘土と砂の層を交互につき固めた版築(はんちく)で作られている。今回確認した18の柱跡は版築を上から掘り込む再建時の穴だったが、東南付近の穴から版築を作る途中で据え付けられたとみられる根石が一つ見つかった。以前の調査でも創建時から柱の位置が変わっていないとされていたが、それを補強する結果という。
 また、別の柱穴からは、焼けた凝灰岩の根石も見つかった。創建時の基壇から転用したとみられ、当初の金堂が火災で焼けた可能性が高まった。

 調査を担当した荒木浩司・同町教委技師は「基壇の規模や変遷についても詳細な情報が得られた。今後の整備のための参考になる」と述べた。

 史跡中宮寺跡整備検討委員長の大脇潔・近畿大教授(考古学)は「飛鳥時代前半の金堂で当初の柱の位置が分かる場所は少なく、残存状態の良い中宮寺跡の価値が改めて確認された」としている。 (4月9日毎日新聞)




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2009年04月02日

古代エジプトの美人王妃の胸像に「整形」の痕跡

ベルリンの博物館に所蔵されている約3300年前に作られた古代エジプトの美女、ネフェルティティ王妃の胸像の顔の下にもう一つの顔があることがCTスキャンの結果、判明した。

 CTスキャンで明らかになった「第2の顔」は、同王妃が決して完全無欠でなかったことを示している。内部の石灰岩に彫られた顔は、化粧しっくいが塗られた表面の完璧な顔に比べて、まぶたの彫りが浅く、口元とほおにしわが見られ、ほお骨もやや低く、鼻りょうに小さなこぶがあった。

 CTスキャンチームの中心となったベルリンのイメージ科学研究所のフッペルツ氏は、これは胸像が何段階かにわたって作られたことを示しており、制作者が「整形」を施したのは、当時の理想的な美人に近づけるためだったとみられると語っている。 (4月2日時事通信)






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「快慶」作と分からず 長野・善光寺仏像の調査結果

 長野市の善光寺は、所蔵する阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)が鎌倉時代の代表的仏師、快慶の作品であるかどうかの調査結果を発表した。

 依頼を受け昨年11月末から調査をしていた籔内佐斗司東京芸大教授によると、現存する快慶作品のほとんどに足裏部分や像内に「快慶銘」があるが、本像には確認できず、現時点では快慶の作品と断定できないとしている。

 ただ、快慶の第2期時代の作品に酷似していることなどから、快慶かその周辺の作品であることには間違いないとしている。

 今回の修復過程で像内から1枚の紙(縦約60センチ、横約30センチ)が発見され、「定快」との文字が書かれていたが仏師の名前でなく、造立にかかわった僧侶の名前でないかとしている。

 今後、本像は御開帳期間中は特別展示され、その後約1年をかけ再び修復と検証するとしている。 (4月2日産経新聞)







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2009年03月30日

最古の割竹形木棺か? 滋賀・市三宅東遺跡

 大規模な玉造り工房などがあった滋賀県野洲市の市三宅(いちみやけ)東遺跡から、丸太を半分に割ってくり抜いた「割竹形木棺」の蓋(ふた)とみられる弥生時代後期(2世紀)の木製品がほぼ完全な形で出土し、同市教委が30日発表した。

 市教委によると、最古の出土例の一つとして知られる久宝寺1号墳(大阪市八尾市)の割竹形木棺(3世紀)より古く、最初期のタイプとみられる。

 割竹形木棺は、古墳時代前〜中期に、有力な豪族クラスを葬る際に使われた。太い丸太を縦に2つに割り、竹のように中をくり抜いて本体と蓋にする。

 市教委によると、木製品は全長約3メートル50センチ、幅65〜45センチ、厚さ約4センチのスギ製で、水路だった場所から発見された。本体部分が未発見で、実際に人が埋葬された形跡はないが、久宝寺1号墳の割竹形木棺の蓋と酷似しているという。

 滋賀県立大の林博通教授(考古学)は「割竹形木棺は大和王権で墓の様式が整う中で、いくつかの種類の木棺の中から採用され、一般化する。その前段階の現物とすれば、これほど良好に残った例はなく、大変重要な資料だ」と話している。 (3月30日産経新聞)





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「東禅寺文書」を県重文に 広島県文化財保護審が答申

 広島県文化財保護審議会は28日までに、同県三原市本郷町南方の真言宗東禅寺に伝わる古文書「東禅寺文書」を県重文に、4世紀後半ごろに造られた同県神石高原町高光の前方後円墳「辰の口古墳」を県史跡とするよう県教委に答申した。

 東禅寺文書は、鎌倉時代から戦国時代までに書かれた18通の文書の総称。その多くは、15世紀のはじめ、住職に相当する「院主」だった頼真という人物が、領地内の権利関係などを明らかにする証拠品として残すため整理したものという。

 三原市教委によると、最も古い永仁5(1297)年の「地頭尼某下知状」では、蟇沼寺(ひきぬでら)(当時の東禅寺)の院主を誰にするかについて、女性とみられる地頭が、対立していた2人の人物、お互いの主張を聞いたうえで、裁決を下した経緯などを記している。同市教委は「中世の荘園や名田の経営実態を知る貴重な史料」としている。

 一方、「辰の口古墳」は、広島県東部最大の前方後円墳で、墳長77メートル。竪穴式の石室は、約2000枚の板状の石を積み上げて築かれており、内部は長さ約6・7メートル、幅約0・8メートル、高さ約1・1メートルの大きさ。

 県教委文化課によると、古墳の規模や、吉備(岡山県地域)と出雲(島根県地域)両勢力の力が強かった地域にもかかわらず、石室の形状など畿内(近畿)の影響を強く受けた点などが評価されたという。

 このような形状になった理由について同課は、吉備と出雲の弱体化を狙う畿内勢力が、両勢力の牽制(けんせい)に適した場所と判断し、この地域を治める首長に古墳の築造を認めたためとみている。
(3月29日産経新聞)


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