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2012年06月18日

応神天皇陵「ナンバー2」の悲しさ…体積は日本一なのに

 「ナンバー2」の悲哀か−。国内最大の仁徳天皇陵(堺市、全長486メートル)よりわずか60メートル小さいだけで、「仁徳」の陰に隠れがちな応神天皇陵(大阪府羽曳野市、同425メートル)。近くにレストランや観光案内所がある仁徳天皇陵と比べると、観光施設もなくひっそりしている。しかし体積は143万立方メートルで、仁徳天皇陵(推定140万立方メートル)をわずかにしのぐ。全体的な大きさなら「真の日本一」といえるだろう。

 古墳の周囲を歩くと、仁徳天皇陵にはない魅力がある。場所によっては、古墳を囲む堤越しに墳丘を直接見ることができ、天皇陵の大きさが実感できる。

 「倭(わ)の五王」の一人ともいわれる応神天皇は、百済(くだら)の王から大刀などが贈られ、論語や千字文を伝えたという王仁(わに)博士も来日。大陸の先進文化が花開き、東アジア外交に力を尽くした。亡くなったのは西暦310年4月1日とされる。その1700年後にあたる一昨年には、宮内庁が、毎年の命日祭「正辰(しょうしん)祭」に代わって100年ごとの「式年祭」が営まれた。

 古墳の築造時期については、宮内庁や羽曳野市教委などの調査で5世紀前半と判明。古墳に立てられた埴輪(はにわ)が決め手となったが、日本書紀などに記された応神天皇の年代より100年ほど新しくなってしまった。

 応神天皇陵説は虚構か−というとそうではないようだ。中国や朝鮮の文献と照合すると、応神天皇は5世紀初めまで国を治めたとの説が有力で、高野学・同市歴史文化推進室長は「築造時期とは大きな矛盾がない」と話す。

 仁徳天皇陵などとともに世界遺産暫定リスト入りした応神天皇陵は、地域の誇り。「近鉄電車の窓から応神天皇陵の大きな墳丘を見ると『羽曳野に戻ってきたなあ』と感じます」と高野さん。「月明かりに浮かぶ姿も実に壮観なんですよ」産経新聞 6月18日

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2012年06月17日

ネアンデルタール人が4万800年前に描いた壁画か 欧州最古と判明

 ワシントン(CNN) スペイン北西部の洞窟に描かれた壁画が、今から約4万年より前に描かれた欧州最古の壁画であることがわかった。これまで最古とされていたものより数千年古く、現代の人類に近い祖先、またはネアンデルタール人が描いた可能性もあるという。15日の科学誌「サイエンス」に発表する。

研究チームはスペイン北西部にある11の洞窟に描かれた壁画50点について、壁画を覆っていた炭酸カルシウムの堆積物を、ウラン・トリウム年代測定と呼ばれる方法を使って調べた。

その結果、赤い円盤形の壁画は4万800年、手の形をした壁画は3万7300年、棒の形の壁画は3万5600年以上も前のものであることが分かった。

これは今まで最古と考えられていた壁画より少なくとも4000年は古いという。現代の人類に近い祖先が欧州に到達したのは4万2000〜4万1000年前だったとされる。

芸術作品は人類の認知力や象徴的行動の進化を調べる上で貴重な手がかりとされ、言語の発達と関連付けられることもある。

研究チームでは、ネアンデルタール人は狩猟や採取だけでなく壁画制作の能力も持っていた可能性があると見ており、今回の測定結果はこの説を裏付けるものだと解説する。ただし結論を出すためにはさらに調査を行う必要があるという。CNN.co.jp 6月15日20120615-00000014-jijp-000-0-view.jpg
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「戸籍」木簡説明会:多くのファン、感動 太宰府の国分松本遺跡から出土 /福岡

 太宰府市教委は16日、国分松本遺跡から出土した最古の戸籍関連木簡に関する説明と展示会を、同市国分4の市文化ふれあい館で開いた。発掘現場での説明は雨天中止となったが、歴史的な発見である木簡を一目見ようと午前中、約400人が訪れた。

 説明会は100人ごとに約10分間ずつ、木簡の発掘を指揮した市教委文化財課の高橋学・技術主査が解説した。16人の人名や注記があった木簡について、戸の異動を記した帳簿木簡▽発見現場の近くに「大宰府」の前身の「筑紫大宰」があった可能性もある−−などと説明。この後、参加者は別室に展示された木簡をカメラに収めるなどしていた。木簡は24日まで展示される(18日は休館)。

 東区の高校3年、占部朱夏(あやか)さん(17)は「木簡には私と同じ占部という姓もあり、親近感がわいて家族と来ました。1300年前の字がきれいに残っていて感動しました」と話していた。毎日新聞 6月17日
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2012年06月13日

最古の「戸籍」木簡、太宰府で出土…大宝律令前

福岡県太宰府市の国分(こくぶ)松本遺跡で、戸籍に関連する飛鳥時代後期(7世紀末)の木簡が見つかったと、市教委が12日、発表した。

 正倉院に伝わる現存最古の戸籍(702年)より古く、中央集権国家が完成したとされる大宝律令の制定(701年)より早い段階で、国家が地方の人々まで直接支配していたことをうかがわせる第一級の資料として注目される。

 木簡は縦31センチ、横8・2センチ、厚さ8ミリ。現在の郡にあたる、大宝律令以前の地方行政単位「評(こおり)」や、685年に定められた官位「進大弐(しんだいに)」の表記があり、7世紀末のものと判断された。

 「戸主(世帯主)は、たけるべのみまろ」、「その妹は、やおめ」など、同じ集落に住む16人の氏名や続き柄のほか、21〜60歳の健康な男子を指す「政(正)丁」、その中から徴発される兵員「兵士」の表記があった。読売新聞 6月13日

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埋蔵文化財発掘調査:杉の堂遺跡や胆沢城跡

 奥州市で昨年度行われた埋蔵文化財発掘調査の成果を紹介する「発掘された奥州市展2012」がこのほど、同市前沢区の「牛の博物館」で始まった。市内の3カ所で巡回展示される。

 同市教育委員会は昨年度、杉の堂遺跡(水沢区)▽胆沢城跡(同)▽白鳥舘遺跡(前沢区)▽長者ケ原廃寺跡(衣川区)の調査を行った。いずれも、長期間調査が続けられているが、市民が出土遺物を見る機会は少ないことから、まとめて紹介する場を、と企画された。土器など約200点が展示されている。

 杉の堂遺跡は、縄文時代後期から平安時代にかけての住居などの跡で、昨年はこれまでの調査範囲の西側を調査。多量の土器、石製品などが出土した。展示会には、原形をとどめていると見られる注ぎ口のついた土器「注口土器」などが出品されている。

 また、白鳥舘遺跡からは、大型の建物跡や中国産の陶磁器、くぎなどの鉄製品が出土した。このうち、器と手に持つ「つる」の部分をつなげるのに使われたとみられる「提子(ひさげ)の金具」などが展示されている。同遺跡からは、「かわらけ」を焼いた窯跡とみられる遺構が確認されており、平泉のかわらけの技術系譜を考えるうえで重要、とされている。毎日新聞 6月13日
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円墳に木棺埋葬跡を確認 京田辺・口仲谷古墳群

 京田辺市教委は12日、同市松井の口仲谷古墳群の発掘調査結果を発表した。円墳の内部に木棺の埋葬跡を3カ所確認し、市教委は「古墳群付近に居住していた一族の墓と考えられる。周辺地域に横穴式の古墳群が多いなか、円墳ばかり集まっているのは珍しい」としている。

 同古墳群は1982年に当時の田辺町教委が発見した。広さは約2400平方メートルで、土地造成に伴い市教委が2011年12月から発掘調査してきた。

 これまで円墳13基があると推定されていたが、今回の調査で1基は自然地形と判明、2基で一つと推定される古墳もあり、直径6〜13メートルの円墳11基が点在することが分かった。

 また、長さ1・5〜2メートルの木棺の埋葬跡が3カ所見つかり、うち2カ所は一つの円墳内に縦に並んでいた。副葬品などはなかった。丘陵地に土を盛った比較的簡素なつくりで、6〜7世紀の古墳時代後期のものと考えられるという。

 市教委社会教育・スポーツ推進課は「周辺で見つかっている同時期の古墳の大半は横穴式。円墳にこだわった一族がいたのかもしれない」としている。京都新聞 6月13日




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2012年06月12日

項羽が焼き打ちした跡か…中国・秦の兵馬俑遺跡

11日付の中国紙・北京日報によると、陝西省西安市郊外にある秦始皇帝の兵馬俑(へいばよう)遺跡の1号坑で2009年6月から行われている発掘調査の結果、坑内で焼き打ちされた跡が発見された。

 調査の結果、坑内で大量に発見された炭化した箇所や木の灰は、高温で大規模な火災が起こったことを示し、自然発生の火災ではないと判断された。

 「兵馬俑の父」と呼ばれる考古学者・袁仲一氏は、遺跡の建造時期と焼き打ちの時期はあまり離れていないと指摘。古代中国の楚の武将・項羽が、前漢の劉邦を宴に招いて殺害しようとした鴻門から遺跡が5キロ・メートルほどしか離れておらず、項羽が始皇帝に憎しみを抱いていたことなどから、「項羽が遺跡を焼き打ちした可能性が比較的高い」と分析している。読売新聞 6月12日
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2012年06月09日

県有形文化財:「上月文書」、181資料を加え新たに指定 県立文書館で企画展開催中

 県教委は、国人領主だった上月(こうづき)氏に関する室町〜江戸時代の古文書群「上月文書附井口家関連資料」を県有形文化財に指定した。文書の一部は1956年に文化財指定を受けたが、歴史的価値が高いとして181資料を新たに加えた。所蔵する県立文書館が開く記念企画展で公開されている。

 上月氏は播磨(現兵庫県)の守護・赤松氏の支族で、後に阿波に移住した。文書は、播磨出身とされる徳島藩士だった井口家(東みよし町)に伝わる。

 文書はほとんどが書状で、感謝状や譲り状など。応仁の乱の東軍総大将として知られる細川勝元からの軍勢を督促するものもあり、国人や守護に関する貴重な資料という。また、井口家に伝わる経緯は不明だが、蜂須賀家家臣の出自を探る手がかりにもなるという。毎日新聞 6月9日

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富士山信仰、最古の木像…11世紀の女神像

 山梨県南アルプス市にある江原浅間(えばらせんげん)神社のご神体の女神像が、11世紀頃(平安時代)に作られたことが同市の調査で判明、富士山信仰に関わる最古の木像と確認された。

 女神像は高さ40センチ。いずれも髪を長く垂らした3人の天女が、中心の如来像を背に三方を向き、胸の下で手を合わせている。一本の木から彫り出し、中空にしない技法や、体格や髪の表現などから、11世紀頃の製作と判断された。

 浅間神社は、奈良時代から平安時代にかけて続いた富士山の噴火の沈静を祈るため創建された。現在、分社が全国に約1300社あり、従来は忍草(しぼくさ)浅間神社(山梨県忍野村)にある1315年に作られたコノハナノサクヤヒメ像が、富士山信仰の最古の神像とされていた。読売新聞 6月9日
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岡山後楽園:「御舟入」全容現れる 江戸期の絵図と一致

 岡山後楽園(北区)の御舟入跡(おふないりあと)が、1716(享保元)年に描かれた「御茶屋御絵図」などの位置とほぼ一致した。発掘調査を進めていた県古代吉備文化財センターが7日発表した。御舟入は、岡山藩主が城と後楽園を往来する際の船着き場で、江戸時代の後楽園の姿をしのぶ遺構が全容を現した。

 発掘現場は、月見橋北詰めの隣接地480平方メートル。絵図に描かれた御舟入は旭川に沿うように設けられた船だまりで規模は東西80メートル、南北30メートル。岸辺の中央には船から上がるための石の階段「雁木(がんぎ)」が描かれ、園内に通じる道に御成門(おなりもん)が建っていた。

 明治時代以降も渡船場として利用されていたが、大正時代に外園遊歩道の整備のため締め切られた。同センターは、文献や絵図に残された御舟入を確認するため、今年4月から発掘を続け、1691(元禄4)年〜1708(宝永5)年に設けられた御舟入の構造をほぼ明らかにした。

 平井泰男・同センター所長は「御舟入は優美な造形で大名庭園の玄関口にふさわしく、品格がある。後楽園の歴史を知る上でも貴重な遺産といえる」と話している。毎日新聞 6月8日

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「玉日姫」御廟所:親鸞の妻?の骨発掘

 京都市埋蔵文化財研究所は8日、西岸寺(さいがんじ)(京都市伏見区)にある浄土真宗の祖、親鸞の妻との伝承がある「玉日姫(たまひひめ)」の御廟所の塚から、江戸時代後期の骨つぼと焼けた人骨が見つかったと発表した。人骨の性別や年齢、時代などは確認できなかった。同研究所では「考古学的には玉日姫との関連は不明だが、江戸時代後期の改葬の記録と今回の調査結果とは、時代的には整合性がある」としている。

 調査は同寺を含む西飯食町(にしいいじきちょう)遺跡の発掘調査として4月に実施。塚は初めて調査された。直径約3・5メートル、高さ0・8メートルの円形の御廟所の塚の下には、江戸時代後期の盛り土を確認し、その下に骨つぼとして使われたとみられる火消しつぼや焼けた骨片があった。

 同寺は平安時代末に関白・藤原忠通が建てたと伝えられる法性寺小御堂があった場所。寺伝によると忠通の子、九条兼実の娘・玉日姫が親鸞と結婚し、ここで亡くなったとされる。同寺の碑文などには玉日姫の御廟所を嘉永5(1852)年に改葬したとの記述があり、今回の調査結果とも一致している。

 親鸞の妻については恵信尼(えしんに)とされており、1921(大正10)年に自筆の手紙が見つかり存在が確認されている。玉日姫は九条家の系図や兼実の日記「玉葉」の中で確認できない半面、鎌倉〜南北朝期の成立とされる文書などに親鸞との結婚に関する記述が見られ、その存在自体も謎に包まれている。

 調査にあたった山形大の松尾剛次教授(日本仏教史)は「今回の成果で、実在しないとされてきた玉日姫の存在がほぼ確実になったのではないか」と話している。毎日新聞 6月9日

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縄文の女神:14年ぶり里帰り 西ノ前遺跡出土の土偶、あすまで舟形で展示

 「女神」が14年ぶりに帰ってきた−−。国宝に指定されることが決まっている舟形町西ノ前遺跡出土の土偶「縄文の女神」を同町で展示する「里帰り展」が8日、町中央公民館で始まった。人口約6100人の小さな町は、明るいニュースをもたらした我が町の土偶の里帰りに沸き返った。同展は、10日まで。【前田洋平】
 土偶は、高さ45センチ、幅17センチで日本最大。直線的で流麗な立ち姿から「縄文の女神」と呼ばれる。里帰り展初日は同町中央公民館2階の1室に設けられた展示スペースに、町内外から約1400人が詰めかけ、「女神」の帰還を喜んだ。
 見学に訪れた同町長者原、無職、井上寿士さん(86)は、当時遺跡発掘に携わったという。「かけらが出てきた当初、こんなに貴重なものだと分からなかった。貴重なものと見極め、残りの部分を入念に探したのは、発掘担当者の先見の明があったから。こうして国宝に指定されるようになって、本物と再会できたのは何よりの喜び」とうれしそうに語った。

 発掘調査を担当し、「女神」発掘を指示した県教委文化財保護推進課の嘱託職員、名和達朗さん(61)は「おそらく祭りなどで使用された後に、役目を終えて、砕かれ捨てられた土偶。今は縄文時代の人々の生活などを私たちに知らせる新たな役目を果たしてくれている」と興奮気味に語った。
 町内の3小学校からは全校児童合わせて209人も見学に訪れた。舟形小1年、高橋蘭さん(7)は「土にずっと埋まっていたのかと思うとすごい」と見つめていた。
    
 10日、午後1時半から同公民館で、文化庁文化財部美術学芸課の原田昌幸主任文化財調査官が「土偶の発生と成長、そして形の面白さ」と題して記念講演を行う。


 県立博物館(山形市霞城町)は、30日から9月17日まで、企画展「豊穣(ほうじょう)と祈り−−縄文女神たちの宴と古墳時代人の想い−−」を開催する。「縄文の女神」の他、長野県茅野市棚畑遺跡出土の国宝土偶「縄文のビーナス」や青森市・三内丸山遺跡出土の大型板状土偶など約500点を展示する。毎日新聞 6月9日




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「鷹島神崎遺跡」調査 琉大と長崎県松浦市が協定

 琉球大学(岩政輝男学長)は4日、13世紀の元寇(げんこう)の際に沈没したとみられる船が見つかった長崎県松浦市の「鷹島神崎遺跡」に関する連携協定を同市と結んだ。今後、両者は同遺跡の調査研究や保存について、さらに連携を深めていく方針だ。

 「鷹島神崎遺跡」では、同大の池田榮史教授(考古学)の研究チームが2011年10月に元寇の沈没船とみられる船の一部を発見した。12年3月には、海底遺跡としては国内初の国指定史跡となっている。
 池田教授は、今年も海中での同遺跡の調査をする予定で「船の全容を明らかにしたい。この調査に関しては海外からの問い合わせも多く、注目されているので、今後大学としてどう発信していけるかを考えたい」と今後の調査研究の抱負を語った。

 連携協定を結んだ同市の友広郁洋市長は「行政として保存活用をしていきたい。(同遺跡が)水中考古学のメッカとなることを望む」と話した。

 同大の岩政学長は「しっかりした研究を行い、保存していく必要がある。お互いに協力しながら取り組みたい」と述べた。琉球新報 6月8日







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2012年06月06日

卑弥呼眠る?箸墓古墳、3次元航空レーザー計測

 邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(3世紀後半、全長約280メートル)について、県立橿原考古学研究所(同県橿原市)と測量会社「アジア航測」(東京)は5日、3次元航空レーザー計測システムを使って作製した精密な立体地図を発表した。

 同古墳は最初の大型前方後円墳とされ、全国にある古墳の成立過程の解明につながると期待される。

 地表にヘリコプターからレーザー光を当てて計測。後円部は5段、前方部は3段に築造され、後円部頂上にある円丘の周囲に、環状の高まりがあることが初めて確認された。陵墓として宮内庁が管理、詳しい調査がこれまで行われていなかった。同研究所の菅谷文則所長は「日本国家の起源を解明する鍵となる古墳の形状が明確になったことは重要な成果だ」と話している。読売新聞 6月6日





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<和同開珎>宮崎で出土…南九州で初、日向国府跡から

 宮崎県西都市の日向国府(8世紀後半〜9世紀ごろ)跡から、奈良時代に鋳造された貨幣「和同開珎(わどうかいちん)」と「萬年通宝(まんねんつうほう)」各2枚が見つかった。九州での古代貨幣の出土は珍しい。これら2種類の貨幣出土はこれまで熊本県が南限で、南九州では初。5日発表した同市教委は「南九州に貨幣がもたらされた貴重な証拠。地鎮祭のため使われたらしい」と見ている。

 日向国府跡(約1万平方メートル、国史跡)は奈良〜平安時代、都から派遣された国司が政務を執った役所の遺跡。昨年度、約700平方メートルを調査し、貨幣は正殿跡から4枚がさびで付着した状態で見つかった。

 和同開珎は708〜759年に鋳造され、日本で最初に通貨として確実に機能した貨幣。萬年通宝は760〜765年の鋳造。日向国府では8世紀後半に使われたと見られる。市教委によると、正殿の基壇(土台)造営に伴う地鎮祭のため埋められた可能性が高いという。下関市立大の桜木晋一教授(貨幣考古学)は「古代貨幣は畿内ではかなり出土するが他は少ない。律令政府関連の施設からは貨幣が出ることを証明した」と話している。毎日新聞 6月5日







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