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2012年06月06日

天理の西殿塚古墳 通路中央部に窪み 奈良

 県立橿原考古学研究所が5日、公表した箸墓(はしはか)古墳(桜井市)の3次元(3D)画像。同時に作製した天理市の古墳時代前期の前方後円墳「西殿塚古墳」の3D画像でも、前方部から後円部につながる通路の中央部に窪(くぼ)みがあることなどが確認された。

 

 橿考研は「古墳時代初期の大和古墳群の形態の変遷などを知る手がかりになる」としている。

 同古墳は、3世紀後半〜4世紀初めの築造とされる。全長約230メートルで、後円部の直径は約140メートル。宮内庁は、継体天皇の皇后、手白香(たしらかの)皇女陵(衾田(ふすまだ)陵)として管理している。

 橿考研と測量会社「アジア航測」(東京)が合同で今年4月、同古墳にヘリコプターで上空からレーザー光を照射して測定した。

 その結果、前方部から後円部につながる通路の中央部に窪みがあることが判明。

 さらに、従来は東側が1段、西側が2段との説もあった同古墳の前方部が、今回の測定の結果、東側が3段、西側が4段で、後円部と同じ段数であることも確認された。

 橿考研の西藤清秀副所長は「レーザー測定によって、西殿塚古墳の明瞭な墳丘形状が分かった」と話している。産経新聞 6月6日






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2012年06月04日

屋久杉に宇宙変動の跡=奈良時代の超新星爆発か

 鹿児島県・屋久島で伐採された樹齢1900年の屋久杉の年輪を分析した結果、奈良時代後期の775年に宇宙で何らかの変動があったことが分かったと、名古屋大太陽地球環境研究所の増田公明准教授らのグループが発表した。超新星爆発か、太陽表面で巨大な爆発が起きた可能性があるという。研究成果は3日付の英科学誌ネイチャー電子版に掲載された。
 研究グループは1956年に伐採された屋久杉を入手。750〜820年に該当する年輪を切り出し、年代測定の手掛かりに使われる炭素14を抽出した。
 炭素14の量は、超新星爆発や恒星表面の爆発(フレア)で発生する宇宙線の量によって変化する。年輪の炭素14は、太陽の11年ごとの活動周期に応じて増減していたが、775年は20倍多く変化していた。
 この急激な増加の原因を、超新星爆発と仮定すると、地球の比較的近くで爆発が起きたことになる。太陽のフレアが原因とすると、通常の1000倍のエネルギーを放つ巨大な爆発(スーパーフレア)が起きた計算になるという。時事通信 6月4日






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2012年06月03日

建設現場で偶然発見された墓跡、前漢・後漢の銅銭や壺が相次ぎ出土―山東省

2012年5月30日、中国・山東省シ博市(シ=さんずいに上がまがりがわで下が田)張店区の建設現場で発見された墓跡の発掘作業が進められていた。魯中晨報が伝えた。
既に発掘が完了している6個の墓のうち、5個が後漢(25〜220年)のもので、1個が前漢(紀元前202〜8年)のものと思われる。これまでに26枚の銅銭と8個の壺、2個の銅製の鏡、1個の銅製のかんざしが出土している。

前漢のものと思われる墓跡から見つかった人骨には辰砂(しんさ)が付着していた。防腐作用のある辰砂が塗られた人骨は少なくないが、同市では珍しいという。また、この人骨の配置がバラバラになっていたため、専門家は一度ほかの場所で埋葬され、その後何らかの理由で現在地へ移動したとみている。また隣接するように墓跡があったため、夫婦もしくは家族の墓ではないかと考えられている。

さらに、発掘が完了した6個のいずれの墓よりも大きい、墓までの道が作られている墓跡も見つかった。遺跡全体の発掘作業はあと半月ほど必要だという.Record China 6月2日
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土石流に埋もれた遺跡 十和田火山噴火

 火山の大噴火によって埋もれたイタリアの古代都市ポンペイになぞらえ、「日本のポンペイ」と呼ばれる胡桃(くるみ)館(だて)遺跡=北秋田市綴子。67〜69年の調査で、915年に起きたとみられる十和田火山の噴火で発生した土石流に埋没した4棟の建物が見つかった。
 現場は十和田火山の南西約100キロ。地表から2〜3メートル下に当時の建物が建ったまま埋没していた。いわばタイムカプセル状態で、全国的にも貴重な例。同遺跡からの出土品は09年、国重要文化財に指定された。
 林信太郎・秋田大教授は「十和田火山の噴火は有史以来国内で最大規模。胡桃館遺跡は過去の生活がそのまま残されていて、火山泥流の遺跡として重要」と評価する。北秋田市教委の榎本剛治さんは「1000年前の災害を今に伝える重要な価値を持つ」と話す。
 この噴火による噴出物は6・5立方キロメートル(東京ドーム約5400杯分)と推定されている。火山灰は宮城県でも残っており、火災泥流は米代川流域一帯、河口の能代市までなだれ込んだという。京都・延暦寺の僧侶が平安時代に書いた「扶桑略記」には、915(延喜15)年8月18日、京都で朝日が陰ったとの記述がある。
 同市教委は専門家らと協力し、他に埋もれた建物がないかを確認するため、08年から胡桃館遺跡の周辺で地中レーダー探査を実施。4、5カ所で反応があったという。
 榎本さんは「地元では胡桃館が土石流で埋まったため、高台の綴子集落に移り住んだのではないかと言われている。遺跡の調査を進め、災害を昔の人がどう乗り越えたのかわかれば、これからの防災のヒントになる」と今後の調査に期待する。
   ◇   ◇
 ところが、これだけの規模の噴火にもかかわらず、十和田火山の噴火を記録した古文書は見つかっていない。一方、十和田湖には有名な民話「八郎太郎」が伝わる。1966年の論文「1000年前のシラス洪水」(平山次郎・市川賢一)はこの物語と噴火を結びつけ、当時の様子を記した伝承だと指摘している。
 「八郎太郎」は地域ごとに細部は異なるが、八郎太郎がイワナを食べて沢の水を飲み干し、大蛇となり十和田湖の主となったが、南祖坊という男に挑まれ、山を崩すような激しい戦いを繰り広げ、敗れて米代川を西へ下り八郎潟にたどり着く、とされる。
 元高校教諭の藤本幸雄さんは「十和田火山の溶岩の跡と八郎潟まで逃げていく八郎太郎が類似している」と話す。地質学が専門の藤本さんは、赴任先の学校で八郎太郎の物語を挙げ、火山について教えていたという。
   ◇   ◇
 噴火が文書以外の形で伝承されるケースは鳥海山でもみられる。
 象潟町史によると、鳥海山は竜頭山とも呼ばれ、鳥海山信仰と竜との関係性は深い。871(貞観13)年の噴火では泥流が2匹の大蛇のように流れ下ったとする文献があり、この様子が鳥海山の神を竜とする元になったという。また、朝廷は噴火など異変があるたびに出羽国大物忌神(鳥海山の祭神)に位階を授け、物忌の祈とうを行わせた(鳥海町史)。
 鳥海山麓(さんろく)の集落に伝わる「延年チョウクライロ舞」も竜と関わりが深い。七つの舞の一つ「閻浮の舞」で使われる陵王の面には竜頭がつく。民俗信仰で陵王と竜王は混同され、陵王の舞は鳥海山の祭神が降臨する舞として現在も受け継がれている。毎日新聞 6月2日





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流失の古文書を復元

 東日本大震災の津波で流失した宮城県南三陸町の志津川西宮神社の古文書を復元していた「えびす神社」の総本社、西宮神社(兵庫県西宮市)の作業が終わり、文書が志津川西宮神社に届けられた。震災前年の撮影データを基に修復業者が本物そっくりに再現した。

 古文書は江戸時代の1742〜69年に西宮神社が発給した「西宮大神宮神像札賦与免許状(にしのみやだいじんぐうしんぞうふだふよめんきょじょ)」など8点。えびす様の描かれた札の頒布を許可する書状などで、当時のえびす信仰の広がりを示す貴重な資料という。
 志津川西宮神社で神社を護持する「別当」の水産加工業川村由幸さん(56)宅に保管されていたが、津波で流失した。震災前の2010年6月に調査のために西宮神社が撮影していたデータなどを基に修復業者が紙質やしわなども再現した。
 5月26日、志津川西宮神社で神前に復元した文書を備え神事を執り行った。川村さんは「復元してくれて大変ありがたい。大切に保管したい」と笑顔を見せた。
 西宮神社も、阪神大震災で絵馬殿が倒壊するといった被害が出ていた。「たとえ復元品でも、気持ちが少しでも和んでくれれば」と話していた吉井良昭宮司(60)は「無事届けられてほっとしている」と安堵(あんど)の表情を浮かべた。河北新報 6月2日






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弥生時代前期の農耕遺構が出土

 徳島大蔵本キャンパス(徳島市蔵本町)内の「庄・蔵本遺跡」で弥生時代前期とみられる農耕関連遺構が見つかり、同大埋蔵文化財調査室が1日発表した。用水路列か畑跡と推定され、今後土壌を分析し遺構の機能を特定する。2日午前10時から現地説明会を行う。

 講堂改修に伴う発掘調査で出土。用水路とみられる幅1・5メートルの溝と、ほぼ同じ幅の畦(あぜ)か畝が4列連なっている遺構で、同時期に発生した洪水によって埋没していた。

 中村豊准教授は「農耕関連遺構がこれほど良好に残り、見つかるのも珍しい」と評価している。産経新聞 6月2日

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2012年06月01日

松本城・本丸庭園を市民に無料開放−城への愛着

 松本市は6月1日から、国宝松本城の本丸庭園を市民に無料開放する。(松本経済新聞)

 入場できるのは天守閣を除く本丸庭園で、通常大人600円、小中学生300円の観覧料が無料になる。無料入園には、市民であることが確認できるもの(運転免許証、障害者手帳、健康保険証、行政サービスで発行している福祉100円バスのパス券や図書館カードなど)の掲示が必要。

 これまで夜桜会や薪能、そば祭りの際など、イベントに合わせて無料開放を行ってきたが、市民を対象にした通年開放は初めて。3カ月間を試行期間とし、その後、本格実施を行うかどうかを検討する。「地元の人は近くまで来ても、有料だと中には入らないという人も多い。もっと城に親しんでほしい」と松本城管理事務所担当者。気軽に足を運んでもらうことで、城への愛着を深め、中心市街地のにぎわい創出にもつなげる狙い。

 昨年度からスタートした、甲冑(かっちゅう)武者が撮影などに応じる「おもてなし隊」も好評。1日2回登場し、活動している。「特に外国人観光客に評判がいい」と同担当者。「地元だと松本城は『当たり前』の風景かもしれないが、外から来た人は本当に感動してくれる。城の良さを市民の皆さんにも感じてもらいたい」とも。

 無料開放は8月31日まで。「おもてなし隊」の活動は10時〜11時、14時〜15時ごろ。







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浅間山噴火で泥流、キセル放置…埋没の集落跡

 江戸時代中期の1783年(天明3年)に起きた浅間山噴火に伴う泥流で埋没した集落跡、群馬県長野原町の東宮(ひがしみや)遺跡で、被災した瞬間の状態を保った遺構や遺物が多数見つかった。

 当時の混乱ぶりを示す貴重な発掘成果として注目される。

 遺跡は吾妻川(あがつまがわ)沿いの河岸段丘上に位置する。県埋蔵文化財調査事業団が2007〜09年に発掘したところ、7か所の屋敷跡から、主屋(おもや)とみられる建物6棟や酒蔵、畑などが泥流に埋まった状態で出土。今春まで整理作業が行われていた。

 遺跡で最も大きい建物(幅20・2メートル、奥行き12・8メートル)では、下駄(げた)が計46点出土。下駄に刻まれた屋号とみられる印が複数確認されたことから、被災直前に多くの人が集まって対策を話し合っていた様子がうかがえるという。

 別の主屋のいろりの近くでは、刻みタバコが詰まったままのキセルが見つかった。火をつけて吸う前に放置されたらしく、あわてて逃げた状況が想像される。






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2012年05月29日

江戸時代のコンパス出土

東京・新宿区の市谷仲之町遺跡で、江戸時代(18世紀半ば)の製図用の金属製コンパスが出土した。

 現代のものとほとんど変わりない形状で、貴重な発見だ。

 都埋蔵文化財センターの調査によると、コンパスは長さ7・8センチ、幅6ミリ、重さ20グラム。真ちゅう製(軸部は鉄製)で先端部分は欠損していた。

 2010〜11年の発掘で、地下室の遺構(深さ約1・5メートル)から、陶磁器や鉄製のナタなどとともに出土した。遺跡周辺は17世紀から幕末まで、「根来与力百人組」という下級武士の屋敷があった場所にあたる。

 文献には、ここに住んでいた与力が1813年に、暦作りの測量にかかわる職についていたことが記されており、関係が注目される。
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吉備池廃寺:「素弁」軒丸瓦を初発見 斑鳩寺と同じ型枠

 日本で初めての勅願寺とされる百済大寺(くだらのおおでら)と推定されている桜井市の吉備池廃寺で、素弁蓮華文軒丸瓦(そべんれんげもんのきまるがわら)が初めて見つかった。桜井市教委によると、斑鳩寺(斑鳩町)や四天王寺(大阪市)で出土している瓦と同じ型枠で作られた瓦で、建立の謎の解明につながる貴重な資料になるという。軒丸瓦は現在、同市立埋蔵文化財センターで初公開されている。【矢追健介】
 奈良国立文化財研究所(当時)の97年の調査で、飛鳥時代最大の金堂基壇跡が見つかり、吉備池廃寺と命名。日本書紀に舒明(じょめい)天皇が639年に建立の詔をしたと記される百済大寺である可能性が高まり、翌98年には100メートル近い高さだったとみられる塔の基壇跡も確認された。
 吉備池廃寺で見つかった瓦はこれまで、花びらの文様の中に子葉がある「単弁蓮華文軒丸瓦」で、この瓦の型枠はその後、四天王寺で用いられた。

 ところが、今年1〜2月に同市教委が実施した発掘で出土した「素弁」の軒丸瓦の文様には子葉がなく、より古いタイプと判明。型枠は「単弁」の軒丸瓦とは逆に、斑鳩寺若草伽藍(がらん)と四天王寺創建時の瓦を作った後で、吉備池に持ち込まれたと考えられている。寺院間での型枠の移動の方向が異なっており、建立のあり方が複雑だった可能性もあるという。


 菱田哲郎・京都府立大教授(考古学)は「これらの寺は相互に密接な関係があった」とし、大化の改新後に左大臣になった阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしのまろ)に注目。「阿倍倉梯麻呂は百済大寺の造寺司だったとする記録があり、日本書紀には648年に四天王寺へ仏像4体を納めたという記事がある。百済大寺の建立に、阿倍倉梯麻呂が関わっていたことの実証につながるのではないか」と評価する。また、吉備池廃寺で過去に出土している「軒平瓦」の型が、斑鳩寺の型と同じであることから、聖徳太子の一族が吉備池廃寺の建立にも関係していた可能性もあるとしている。


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2012年05月27日

萩前・一本木遺跡:古墳時代の首長居館跡出土

 高松市教委は、同市仏生山町甲の古墳時代中期から近世の集落跡「萩前(はぎのまえ)・一本木遺跡」で、古墳時代後期(6世紀ごろ)の首長クラスが使ったとみられる居館跡が見つかったと発表した。居館と集落は溝で区画されており、同様の構造を持つ遺跡の発掘は松山市の「樽味四反地(たるみしたんじ)遺跡」に次いで四国で2例目という。
 居館跡は市立病院の建設に伴い、昨年4月から続けられている発掘調査で確認。南辺30メートル以上、西辺20メートル以上の規模に掘られた溝(幅約2メートル、深さ約1・7メートル)により、外側の集落跡と区画されているのが特徴で、方形の溝に囲まれていたと推定されている。
 居館跡では、竪穴建物や掘立柱建物の遺構が複数確認されており、須恵器や土師(はじ)器の破片も見つかっている。一方、溝はV字形に掘削されており、防御を目的として掘られたと考えられるという。古墳時代後期の間だけでも、居館跡では時期の異なる複数の建物が建てられていることから、市教委は「高松平野にいた有力者が長期間、居住した跡ではないか」と推定している。
 発掘作業は8月まで続けられ、個々の建物の規模や構造について、調査を進める。市教委文化財専門員の波多野篤さんは「実態がよく分かっていない古墳時代の集落について、解明していくモデルケースになるのではないか」と期待している。
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「卑弥呼の鏡」コンパスで製作?形状33面一致

 邪馬台国の卑弥呼が中国・魏から受けたとの説もある三角縁神獣鏡の製作に、「挽型(ひきがた)」と呼ばれる木型が使われていたとみられることが、奈良県立橿原考古学研究所の調査でわかった。

 円形の鋳型を作る際、コンパスのように回転させて使う道具で、謎の多い鏡の製作過程を知る手がかりになると期待される。27日に東京・立正大で開かれる日本考古学協会総会で発表される。

 挽型は、鋳型の断面を刻んだ板で、軸を中心に回転させて粘土などを削り、立体的な鋳型にする。同研究所が、それぞれ同じ文様を持つ9組の鏡計36面について、精密なデータを比較。このうち、7組の33面で、挽型の軸を立てた際にできたくぼみとみられる跡や、同心円の凹凸の形状が完全に一致した。
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2012年05月24日

隠岐の島に採掘跡

 隠岐の島町久見で約2〜3万年前の後期旧石器時代に黒曜石を採掘していた跡が見つかった。黒曜石の採掘跡は全国各地で見つかっているが、旧石器時代のものが発見されるのは全国的にも珍しい。採掘跡周辺では、黒曜石製の石器も多数見つかっており、大規模な石器製作場があったと見られる。発掘した研究者は「山陰の旧石器文化の特徴解明につながる発見」と、研究進展に期待を寄せる。【宮川佐知子】
 広島大大学院の竹広文明准教授と世界ジオパーク登録を目指し活動する「隠岐ジオパーク戦略会議」(八幡浩二会長)、同町教委が19日、発表した。黒曜石は石器の材料として利用される火山岩の一種。隠岐の黒曜石を使った石器は各地で発見されている。
 調査開始は07年に豪雨のため高さ約5メートルの崖が崩れたのがきっかけ。竹広准教授が黒曜石が採れる地層を人為的に掘ったくぼみと黒曜石製石器を崖下で見つけた。08年にはくぼみ下部から、石を砕く石器「ハンマーストーン」などを発見。昨年9月には、後期旧石器時代のナイフ形石器など黒曜石製石器約20点も確認された。
 また、崖から約17・5メートル内側の地点を深さ約2・5メートル掘り進めたところ、黒曜石が採れる地層を発見。採掘場が広範囲に広がっていることも確認された。採掘場は良好な状態で残っており、竹広准教授は「土砂が堆積(たいせき)して埋没したため残った。国内でも珍しい遺跡だ」と説明した。
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奥平家しのび、戦国絵巻

 中津市の中津城で19日、4代目城主の奥平家をしのぶ「たにし祭」があった。武者行列や火縄銃撃ちなどの戦国時代絵巻に、大勢の見物客が見とれた。
 織田信長の名を高めた長篠の戦いで、奥平家が長篠城に立てこもり、援軍到着まで、堀のタニシで飢えをしのいだとされる故事にちなむ奥平神社の例大祭。城内ではタニシの佃煮(つくだに)が振る舞われた。
 甲冑(かっちゅう)を身に着けた若武者らがJR中津駅から凱旋(がいせん)行列しながら中津城へ。本丸で陣を張っていた長篠・下原鉄砲隊(愛知県新城市)が火縄銃の祝砲で出迎えた。耳をつんざくごう音とともに筒先から白煙が上がった。その後、若武者らが勝ちどきを上げた。
 東日本大震災復興支援として募金箱を置き、天守閣の入場料やオリジナルグッズの売り上げの一部も寄付する。
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2011年08月27日

畑ヶ田遺跡:銭貨入った土器のかめ見つかる

 富田林市若松町1の「畑ヶ田(はたけだ)遺跡」から、銭貨5枚が納められた土器のかめや、掘っ立て柱の建物跡が見つかった。市教委は27日午前10時から正午まで、現地説明会を開く。

 遺跡は、弥生時代から中世にかけての集落跡。保育園建設に伴って、市教委が7月から約760平方メートルを発掘調査していた。

 市教委によると、今回の発掘はいずれも奈良時代の物。銭貨は1枚に「開」とみられる字があり、「和同開珎(わどうかいちん)」か「神功開宝(じんぐうかいほう)」と推定。複数枚の銭貨が納められた土器の発見は、府内では2例目という。柱穴は大きいもので一辺約1メートルあり、最大で直径約40センチの柱を持つ建物が存在していたとみられる。(8月27日毎日新聞)



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