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2011年08月19日

萩前・一本木遺跡:奈良期の大規模建物跡 郡衙の可能性も−−高松

 高松市教委が発掘調査している「萩前・一本木遺跡」(同市仏生山町甲)で、古墳時代中期から奈良時代の大型集落跡などが見つかった。一辺が約60〜70センチある長方形の柱跡も確認され、大規模建物が存在したとみられる。担当者は「大規模建物は、讃岐国府の支所にあたる『香川郡衙(ぐんが)』などとして使われた可能性もある」と話している。

 調査は高松市民病院の建設工事に伴って今年4月から実施。調査予定地約1万5430平方メートルのうち、これまでに約2780平方メートルを発掘した。


 その結果、竪穴住居跡12棟や掘っ立て柱建物跡7棟を確認。掘っ立て柱建物のうち1棟は、九つの柱穴が縦約70センチ、横約60センチの長方形で、直径約15〜30センチの円柱跡だった他の建物とは規模も形状も異なっていた。付近から出土した、須恵器や土師器の破片、都でよく使われた特徴的な文様のある土器の一部などから、長方形の柱を持つ建物は奈良時代、残る住居などは古墳時代後期から飛鳥時代に使われたとみられる。

 市教委文化財課の船築紀子主事は「北約200メートルには、都と地方を結んだ旧南海道があったとされ、大規模建物は、讃岐国府の支所などの公的機関として使われた可能性もある。地域の歴史を知る上で貴重」と話している。市教委は来年8月まで、残る予定地の作業を行う予定。(8月19日毎日新聞)
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底一面礫敷き埋葬施設が出土 福知山・ゲシ山3号墳

 福知山市教育委員会は17日、京都府福知山市土師のゲシ山3号墳で底一面に小石(礫(れき))を敷き詰めた古墳時代中期の埋葬施設が出土した、と発表した。礫敷きは排水機能を高める狙いだったとみられ、墳墓の構造としては全国的にも特異な例という。礫の上に木棺を固定したと想定される跡も残り、市教委は「資料的価値が高い」としている。

 宅地開発に伴って、5月末からゲシ山古墳群の北側約300平方メートルを発掘調査した。

 出土した墓穴は全長4・1メートル、全幅1・9メートル、深さ0・8メートル。床全体に直径6〜15センチの礫が敷かれ、中央に排水溝が掘られていた。箱形木棺の痕跡とともに、3カ所で平行な礫の並びが確認され、木棺を固定する桟木を配置した跡とみられる。

 方墳の形や近くで出土した土師(はじ)器から4世紀末〜5世紀前半の築造と推定されている。

 市教委によると、礫には墓を立派に見せる意図もあるといい、木棺内部に敷く形は類例が多いのに対し、床一面に敷くのは珍しく、同市の稲葉山8号墳など府内の主に由良川中下流域で過去4例確認されているという。(8月18日京都新聞)
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2011年07月31日

匹見町山崎遺跡:竪穴住居から「土器埋設炉」 

 益田市教委が発掘している縄文時代の集落跡「匹見町山崎遺跡」(益田市匹見町澄川)で、約4000〜3000年前の縄文後期の竪穴住居2棟が見つかり、うち1棟の中心部から縄文式土器を地面に埋め込んだ「土器埋設炉」が県内で初めて出土した。市教委文化財課は31日午前10時半、現地説明会を開催。出土した状態の炉を見学できる。

 同課によると、山崎遺跡は匹見川と能登川合流点の河岸段丘上の集落跡。一帯では約8000年以上前の縄文早期〜後期の土器や石器など約5万点が見つかった。約4000平方メートルの平地に縄文後期の約1000年間、断続的に集落が営まれていた。

 住居跡の一つは直径約3メートルの円形。土器の上部を切り取って埋めた直径約30センチの埋設炉があった。煮炊きや暖房に使ったとみられる。山陰地方では鳥取県の智頭枕田遺跡で土器を完形のまま埋めた埋設炉が見つかっているが、県内では出土例がなかった。もう1棟は約5メートル四方で、石を周囲に立てて作った「石囲い炉」があった。

 一般的な縄文時代の遺跡と比べて漁網のおもりが多量に見つかっており、同課は「豊かな川魚を主な食料としていたのでは」とみている。(7月31日毎日新聞)






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恭仁京の貴族邸宅か、荷札木簡出土 上狛北遺跡

 奈良時代に一時都が置かれた恭仁(くに)京の推定地内にある京都府木津川市の上狛北(かみこまきた)遺跡で、都の貴族に送る米に付ける荷札木簡や地方役人の役職が記された木簡が見つかり、府埋蔵文化財調査研究センター(同府向日市)が27日、発表した。恭仁京で貴族の邸宅があったことを裏付ける資料として注目される。

 荷札木簡は長さ15.8センチ。「海戸主海八目戸服部姉虫女米五斗」の15文字が書かれ、戸主が海八目(あまはちめ)という大家族の「服部姉虫女(はっとりあねむしめ)」という名前の女性が、米5斗(と)(当時の30〜35キロ)を送るとの内容。国、郡名はなく、役所で使われた正式な木簡ではないとみられるが、米俵に刺して恭仁京に住む貴族の邸宅に送ったらしい。

 役職名のある木簡は長さ19センチで、香川県坂出市付近の地名「讃岐國鵜足(うたり)郡」と、当時の郡役所ナンバー2の役職である「少領(しょうりょう)」が墨書されていた。

 恭仁京は聖武天皇が造営し、天平12(740)年から16年まで都が置かれた。天皇が住んだ内裏など「宮(きゅう)」の部分の遺構は調査で確認されている。貴族らが住む「京域」が造営されたかどうかは不明だったが、今年1月の発掘調査で京施設と推定される溝・建物跡が出土。木簡は溝近くの穴から恭仁京期の土器などと一緒に見つかった。

 木簡は8月20、21日に向日市文化資料館で公開される。(7月28日産経新聞)




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2011年07月04日

寛永通宝、バリ島の遺跡に…最南端での出土記録

 「寛永通宝(かんえいつうほう)」など江戸時代の銅銭が、インドネシアのバリ島で出土していたことが分かった。

 寛永通宝は当時、海外でも通貨や装飾品として流通し、北はアラスカから、南はベトナムまでアジアを中心に多数見つかっているが、バリ島は最南端となる。三宅俊彦・専修大兼任講師(考古学)が、バリ島の国立考古学研究センターなどで確認した。

 見つかったのは、島内の集落跡、バドゥダワ遺跡などで出土した寛永通宝28枚と長崎貿易銭(元豊(げんぽう)通宝)4枚の計32点。日本の新聞が第2次大戦中、バリで寛永通宝が通貨の一部に交じって流通していると報じたことがあったが、実際に考古学調査による出土品が確認されたのは初めて。 (7月4日読売新聞)



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2011年07月03日

沖縄の“宝”公開 ネット上にデジタル書庫

 沖縄の“宝”を広く発信しようと県立図書館はこのほど、所蔵する古地図や絵図、古文書など610件をデジタル化し、「貴重資料デジタル書庫」としてインターネット上で公開を始めた。郷土学習や市町村史の編さん、研究などに幅広く活用してもらうと同時に、原資料の損耗を防ぐことが狙い。同館は「いつでも、どこでも、誰でも沖縄の貴重な資料に触れ、活用することができる。沖縄の文化の魅力や奥深さを多くの人に知ってもらいたい」と利用を呼び掛けている。同館ホームページで閲覧できる。

 iPad(アイパッド)でも利用できるなど、これまで来館しないと見られなかった資料が、閲覧・活用しやすくなった。2011年度にはさらに500点を追加する予定だ。解説を付ける作業も順次、進めている。

 デジタル化されたものの中には、安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の僧・南浦文之(なんぽぶんし)が1649年に著した文集や、1714年に程順則(ていじゅんそく)が著した「雪堂燕遊草(せつどうえんゆうそう)」など貴重な資料も含まれている。

 東恩納寛惇文庫の「首里古地図」や「琉球染織」など40点には既に解説が付けられている。同館資料班の宮城涼子班長は「解説を読むことで鑑賞の仕方が分かり、資料への興味関心も高まる」と強調し、解説機能を充実させる考えを示した。 (7月3日琉球新報)




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<メキシコ>マヤ文字の石積み階段 日本人研究者が発見!

 メキシコ南部カンペチェ州で、古代マヤ文明の都市国家の一つで西暦250〜900年ごろに栄えたとみられるエル・パルマール王朝の遺跡から、マヤ人が表意と表音文字を組み合わせて生み出したマヤ文字が刻まれた石積み階段がほぼ完全な状態で見つかった。

 マヤ遺跡は公式登録されたものだけで6000を超えるが、マヤ文字の階段を持つピラミッド遺跡は約25しか見つかっておらず、その多くは風化と破壊で判読できなかった。

 発見者は米アリゾナ大の考古学者で、エル・パルマール調査団長の塚本憲一郎さん(38)。09年6月にマヤ文字が彫られたブロック石を発見。米ナショナル・ジオグラフィック誌やメキシコ国立人類学歴史学研究所の援助を得て、昨年12月に発掘調査を開始、今年2月までに地中に埋まっていた石積みの階段を掘り出すことに成功した。エル・パルマール遺跡は1936年に発見されたが、密林に阻まれ、発掘はほぼ手つかずだった。

 今回、マヤ文字の階段が見つかったピラミッド神殿は底辺が10メートル四方、高さが3メートルと小型で、階段は6段あった。内部に前歯に翡翠(ひすい)が埋め込まれた男性が埋葬されていた。

 刻まれていたマヤ文字によれば、ピラミッド神殿は西暦726年に建設された。エル・パルマールの歴代の王の名前や、ほぼ同時期に栄えたカラクルム王朝やコパン王朝から王が同地を訪れた、との記述も見つかった。

 マヤ社会は紀元前11世紀からスペイン人に征服された16世紀まで続くが、最も興隆したのは西暦250〜900年ごろ。統一王朝を持たず、複数の王朝が大小の都市国家を建設し、争っていた。(7月1日毎日新聞)







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2011年07月02日

住居跡から弥生期の土錘、大量に 亀岡・余部遺跡

 亀岡市教育委員会は30日、京都府亀岡市余部町の余部遺跡で弥生時代後期〜古墳時代中期(1〜5世紀)の竪穴住居跡4棟と鎌倉時代(13世紀)の溝が見つかったと発表した。住居跡から漁に用いたとみられる土の重り「土錘(どすい)」がまとまって見つかり、市教委は「網を使った漁労など当時の暮らしを知る手がかり」としている。

 同遺跡は弥生〜鎌倉時代の複合遺跡。1965年からの調査でも今回と同時期の住居跡31棟を確認している。今回は第10次調査で、遺跡の中心地とみられるグンゼ亀岡工場増設に伴い、敷地内の約800平方メートルが対象。住居跡は弥生時代の3棟と古墳時代1棟。1辺約3・5メートル〜6メートルの長方形か正方形で、柱穴とみられる跡や土器の破片などが見つかった。弥生後期の床下収納とみられる穴から直径4〜7センチの土錘が28個出土し、「府内でも弥生時代の土錘がまとまって見つかるのは珍しい」という。

 2日午前10時半から市民対象の現地説明会を開く。(7月1日京都新聞)




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2011年06月29日

国重文:「上岡遺跡」で出土の土偶 単体指定で県内初−−福島・飯坂

 福島市飯坂町の縄文時代の集落遺跡「上岡遺跡」で出土した土偶が27日、国重要文化財(美術工芸品考古資料)に指定された。土偶単体での指定は県内では初めて。国宝を含めて全国で15例目となる。

 市教委によると、土偶は52年12月の発掘調査で出土した。高さ21・3センチ、幅11・5センチで、約3500年前の縄文時代後期に粘土で作られたという。背を丸め、しゃがみ込む「蹲踞(そんきょ)」の姿勢を取り、腹部にふくらみがある。江戸時代まで続いた出産の姿勢「座産」か、子どもをあやす姿勢とみられ、縄文時代の文化・習俗を知る上で貴重な資料という。同様の姿勢の土偶は、青森県や島根県でも出土しているが、指定された土偶は他よりも大型で、精巧な作りが特徴という。

 震災当時は東京国立博物館(東京都台東区)に貸し出されていたため被災は免れ、3月18日に国の文化審議会で指定の答申を受けていた。余震が続くため現在は公開できないが、10月に市資料展示室(同市上町)で展示する予定という。
 瀬戸孝則市長は「今回の指定を機に、縄文の魅力を生かしたまちづくりを一層進めていきたい」とのコメントを出した。(6月28日毎日新聞)





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2011年06月28日

ヘリからレーザーで発見 未知の前方後円墳

 奈良県橿原市の新沢千塚(にいざわせんづか)古墳群(4世紀後半〜6世紀中頃)で、ヘリコプターからレーザー光を地面に照射する航空レーザー計測を実施した結果、未知の前方後円墳が見つかったと、県立橿原考古学研究所と測量会社「アジア航測」(東京)が28日、発表した。

 航空レーザー計測は防災目的の地形計測などで活用されているが、文化財への応用は、宮内庁の陵墓(りょうぼ)参考地に指定されている御廟山(ごびょうやま)古墳(堺市)やコナベ古墳(奈良市)で昨年初めて実施され今回が2回目。

 古墳群の主要エリア約100ヘクタールで、レーザー光により3次元でとらえたデータから「赤色(せきしょく)立体地図」を作成。樹木のない墳丘(ふんきゅう)の形状が再現され、古墳418基の存在が確認できた。

 新たに発見された前方後円墳は全長42メートルで、鳥屋(とりや)ミサンザイ古墳(宣化(せんか)天皇陵)の南西約50メートルの竹やぶにあり、墳丘が低いため古墳と認識されていなかったといい、年代についても不明という。調査ではまた、長方形墳の端に円墳が乗った類例のない墳形の古墳も確認された。

 調査を担当した西藤清秀・橿考研付属博物館長は「大規模古墳と同様に明瞭な墳丘情報を入手できた。今後、築造過程を順序立てて表現することで古代人の気持ちで古墳築造の空間利用を考えることができるだろう」と話している。

 新沢千塚古墳群 約600基が密集した古墳群で、昭和37〜41年に約130基が調査された。渡来色が強くガラス製碗など大陸由来の珍しい副葬品で知られる。51年に国史跡指定。(6月28日産経新聞)





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2011年05月24日

縄文時代のノコギリクワガタが奈良で出土 完全形は初

 奈良県御所市の秋津遺跡で、縄文時代晩期後半(2800〜2500年前)のノコギリクワガタがほぼ完全な形で出土し、県立橿原考古学研究所が24日、発表した。昆虫は腐食しやすいため残りにくく、クワガタの全身が発見されるのは縄文時代に限らず初めて。

 橿考研によると、縄文時代のクワガタは東京都東村山市の下宅部(しもやけべ)遺跡などで一部が見つかっているが、全身の出土例は確認されていないという。

 全長6・3センチのオスで、小川の南岸に生えていたアカガシの根っこから見つかった。大雨などの影響で死後すぐに泥で真空に近い状態でパックされたため良好に残ったとみられる。

 アカガシのほかにもクヌギやコナラなど食用の実が成る樹木の雑木林が小川の南側で見つかり、北側では約1千点もの縄文土器の破片も出土した。

 クワガタを発見した橿考研の松岡淳平調査員は「子供のときクワガタを昆虫採集で見つけたときと同じ感動があった」と話した。

 出土したクワガタは橿考研付属博物館(橿原市畝傍町)の特別展で25日〜6月12日に展示される。(5月24日産経新聞)





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2011年05月10日

平泉、世界遺産登録へ 観光振興「起爆剤に」 

 岩手県の「平泉の文化遺産」に7日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関から世界遺産への登録勧告が出された。3年前の「登録見送り」を教訓に、構成資産を9つから6つに絞って勝ち取った「内定」。構成資産から除外された奥州市、一関市からも東日本大震災からの復興に向け喜びの声が上がった。

 今回の構成資産は中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山、柳之御所遺跡で、いずれも平泉町内にある。「浄土思想と個々の構成資産との関係が不明確」と指摘された前回の勧告を踏まえ、昨年1月に作成された今回の推薦書では白鳥舘遺跡、長者ケ原廃寺跡(以上、奥州市)、「骨寺村荘園遺跡と農村景観」(一関市)を除外した。

 この決定に当初は反発する声もあったが、奥州市の小沢昌記市長は「復興に向けて希望の光がともったような気がする。登録に向け関係機関は最後まで頑張ってほしい」、一関市の勝部修市長も「県全体、被災地の復興にとっても平泉から大きな希望の光を発信できる」とエールを送った。

 勧告を受け地元では観光面での期待も大きい。平泉町によると、4月29日から今月5日までの連休中、同町を訪れた観光客は約4万5千人で昨年同期から80%以上も減った。町は観光対策のプロジェクトチームを発足させ、奥州、一関両市などと連携を深め、「世界の平泉」をアピールする方針。首都圏キャンペーンなども行うという。県北部の酒造会社は「平泉の世界遺産登録を起爆剤として、全県の観光振興を図ってほしい」としている。 (5月8日産経新聞)





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アメンホテプ3世の巨大像を発掘、ツタンカーメンの祖父 アメンホテプ3世の巨大像を発掘、ツタンカーメンの祖父

 エジプトのザヒ・ハワス文化財担当国務相は26日、古代エジプトのアメンホテプ3世の像が発掘されたと発表した。高さは13.65メートルで、これまで見つかったアメンホテプ3世の像としては最も大きい。

 発掘が行われたのは、エジプト南部ルクソールのナイル川西岸にあるアメンホテプ3世の葬祭殿跡。この像は葬祭殿の北側の入り口にあった像2体のうち1体とされ、紀元前27年の地震で倒壊したとみられている。発掘時には7つに分かれた状態で、頭部は見つかっていない。

 アメンホテプ3世はツタンカーメン王の祖父にあたる人物で、約3350年前にエジプトを統治していた。

 今回の発掘ではこのほか、ライオンの頭を持つ女神セクメトの像(高さ1.85メートル)や、知恵の神トートの像の一部も見つかった。(4月27日ロイター)





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源平合戦で焼失50万枚…東大寺再建の瓦

 大阪府泉佐野市東羽倉崎町の安松田(やすまつだ)遺跡から、平安末〜鎌倉時代初めの大量の瓦が見つかり、府教委が19日発表した。源平の合戦で治承4(1180)年、平氏に焼き討ちされた東大寺(奈良市)の再建で使われた瓦と大きさや文様が一致。遺跡一帯で生産された瓦が約60キロ離れた東大寺大仏殿などに使われたという。東大寺再建時の瓦窯(がよう)は岡山市の万富(まんとみ)窯、愛知県田原市の伊良湖(いらこ)窯に次いで3例目で、再建時の状況を再現する貴重な資料になりそうだ。

 調査では、瓦片約1300点が出土。瓦は縦42センチ、横34センチで通常の瓦の2倍近い大型で、軒先を飾る軒平瓦の文様も東大寺で出土した同時期の瓦と一致。瓦がずれないようくぎで固定したくぎ穴もあったことから、屋根が巨大で傾斜がきつい大仏殿に葺(ふ)かれた可能性が高いという。粘土を採取した穴や炭が詰まった穴も見つかり、この地域で瓦窯を築いて大量生産したとみている。

 東大寺は、平重衡(しげひら)の焼き討ちで大仏殿や大仏などが焼失。後白河法皇から大勧進職に任じられた僧・重源(ちょうげん)が、寄付を募る勧進を行い再建された。

 泉佐野一帯は当時、重源と親しかった太政大臣・九条兼実(かねざね)が治め、東大寺再建では資材調達などで相談を受けていた。大仏殿には最大50万枚の瓦が葺かれたと推定され、遺跡一帯は良質な粘土がとれたことから、兼実が調達に協力したとみられる。

 これまで泉佐野一帯で東大寺の瓦が焼かれた記録は見つかっておらず、府教委は「東大寺再建の隠された歴史の一端が明らかになった」としている。

 東大寺は奈良時代に聖武天皇が建立し、鎌倉時代に再建されたが戦国時代に再び兵火で焼失。現在の大仏殿は江戸時代に再建された。瓦は26日〜5月8日、大阪府大阪狭山市の府立狭山池博物館で展示される。(4月2日産経新聞)







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2011年01月12日

清滝街道 「行基の道」本線発見 四條畷市「府教委の推理誤り

 大阪府四條畷市下田原の山すそで見つかった古道跡が、大阪と奈良を結ぶ清滝(奈良)街道の一部とみられることが四條畷市教育委員会の調査で分かった。奈良時代の僧、行基(668〜749年)ゆかりの街道で、これまでは大阪府教委の調査などから、現在の国道163号に沿って通っていたと考えられていた。市教委は、府教委の「推理」は誤りと判断。かつての交通環境を知る貴重な遺跡として調査を進めている。 

 古道跡は国土交通省の道路整備に伴い平成20年の試掘で一部を発見。昨年10月まで本格的な調査が行われ、東西約200メートルにわたり、左右に側溝を備えた幅約2・4メートルの道がほぼ完全な形で見つかった。

 市教委によると、明治時代の地図にも記載がない未知の古道。江戸時代に流通した寛永通宝などの銅銭が複数見つかっているため、江戸時代以降、廃路になった可能性があるという。

 府教委が平成元年に発行した調査報告書では、この地域を通る清滝街道は古道跡から150メートルほど離れた国道163号と重なるように通っていたとされている。ただ、府教委の調査は地勢状況などに基づく「推理」だったため、ルートが実線ではなく点線でぼかして記載されていた。

 清滝街道の幅は文献に「八尺」(約2・4メートル)と記されており、溝部分を含め今回見つかった古道跡の幅と一致。西端は現在の街道ともつながることから、市教委は清滝街道古来のルートと結論付けた。市教委の担当者は「江戸時代以降に国道のもととなる道が整備され、そちらが便利だということで埋もれたのではないか」と話している。

 清滝街道は奈良・東大寺の大仏造営に携わった行基が整備したとされる大阪と奈良を結ぶ幹線道路。 (1月8日産経新聞)





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